祝福と、衝動。
その瞬間のことは一生忘れないだろうと思った。
「海咲さん、おめでとうございます。」
海里が拍手をして、そして健闘を讃える握手を求めてきた。海咲は自分の名前を聞いて呆然としていたが、ようやく実感と喜びが湧いてきた。
「ありがとう、海里ちゃん。私、頑張る…っ!」
鼻の奥がツンと痛くなって、熱い思いと共に涙が込み上げてきた。
「すごかったよー、斉藤さん。」
「おめでとう!」
役者仲間からも次々と祝福と賛辞の言葉が贈られる。団長も拍手を贈りながら、言葉を紡いだ。
「今回は本当に難しかった。審査する我々も意見が割れてね。最後は斉藤さんの熱意が決め手になりました。おめでとう、精進してください」
その後、海里も無事に役をもらいオーディションは終わった。
打ち上げに行くかという劇団の仲間の誘いは断って、海咲は足取りも軽くスタジオから地上へと続く階段を上った。清々しい気持ちで最後の段を踏みしめて、鞄からスマートホンを取り出す。画面をタップして、電話を掛ける。数秒のプッシュ通知の音が響き、相手が出た。
「あ、もしもし。きーくん?」
電話の相手は喜一だった。
「今、時間大丈夫?」
『うん。どうした?』
海咲の声には喜びの色が隠せない。
「えーとね、うん。あの、今からアパートに行ってもいい?話があるの。」
どうせなら直接伝えたい。そして、喜一が共に喜ぶ顔が見たかった。
『いいよ。俺も、海咲と話したいし。』
「ありがとう、じゃあ今から向かうから。三十分ぐらいで着くと思う。」
電話を切って、海咲は嬉しさを力に変えて駆けだした。駅前に着くと、海咲が気に入っているケーキ屋の看板が目に留まった。いつもはカットされたケーキを購入していたが、今日は特別だ。思い切ってホールで買って、喜一と目一杯に食べよう。そう思い、海咲はケーキ屋の自動扉をくぐった。
桃とヨーグルトのタルトをホールで購入し、今度はタルトの入った箱を傾けないようにゆっくりと歩いた。目に映るすべてのものが光に輝いて見える。鼻歌を歌いながら機嫌よく進み、アパートが見えてきた。走ってゴールインしたい気持ちを押さえて、海咲はかぜよみ荘の階段を上る。かつん、かつんと響く足音に気が付いたのだろう、喜一が寸前で玄関の扉を開けて海咲を迎え入れてくれた。
「ありがと、きーくん。」
「うん。」
上がって、と喜一に誘われて、海咲は遠慮なく部屋に上がり込む。靴を脱いで、タルトの入った箱をテーブルに置いた。
「どうしたの、これ。」
「うふふー、食べたくなったの!」
そう言って海咲はタルトを切り分ける為のナイフを探しにキッチンに向かう。
「丁度良いのないから、包丁でいっか。」
流し下の戸棚を開けようと、海咲はしゃがむ。
「海咲。」
「なあに?ちょっと待って、」
「別れよう。」
夕方からの急な雨に降られて、時生は商店街での買い出しの帰り道を走っていた。
「予報が外れたな。」
通り雨かと思って花屋の軒先で雨宿りをさせてもらっていたが、いよいよ本降りと化して仕方なく雨の中に飛び出したのだ。パシャ、と水溜りを踏んで、飛沫を上げながら駆けていく。ようやくかぜよみ荘に辿り着いて、玄関の錠を落とし扉を開ける。ふう、と息を吐いて、タオルで服に滲みた水分を拭っていると、玄関のチャイムが鳴った。
「今、出ますー。」
時生がそう言う間も、チャイムは何度もビーと音を立て鳴っていた。一回押せば聞こえるのにと思いながらも、時生は髪の毛をタオルで拭きながら対応すべく玄関に向かった。
「はーい…?」
がちゃりと音を立て、扉を引くとそこには海咲が立っていた。
「海咲さん?何か用…、」
「…。」
海咲は無言のまま俯いている。
「…その血はどうしたんですか。」
海咲の手は血に濡れていた。それに気づいた時生は膝をついて、彼女の手を取った。傷口は見当たらない。よく見ると服のあちこちにも点々とした赤黒い染みが生じている。
「…の、…ゃない…。」
「え?」
か細い声で、小さく海咲は告白した。時生は顔を上げる。
「私の、血じゃない。」
海咲は泣きながら、笑っていた。瞳から止めどなく涙を零すのに、笑った唇の端は痙攣するように引き攣っている。その異常さに気が付いた時生は、戸惑い無く海咲の手を握った。
「海咲さん。ゆっくりでいいので話してくれませんか。何があったのかを。」
部屋に入るように促して、海咲を落ち着かせるように座らせた。
「きーくん…が、きーくんがね…、」
海咲は怯えるように辺りを見渡して、そして自分の手を見た。
「上田さんが、どうしたんですか?」
「わ、別れようって、言う、の。」
寒気を覚えたように肩を大きく震わせて、海咲は手をぎゅっと握る。力がこもり白くなった肌に、血液の赤がよく映えると時生は場違いに思った。
「だから、私…きーくん…、」
殺しちゃった、と海咲は呟いた。




