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憎らしい彼

かぜよみ荘の集団の郵便受けの前で段差に腰掛けながら、時生は猫と戯れていた。白と黒のブチ猫は夏なのに福福に太っていて、ごろんごろんと地面に身体をこすりつけている。その柔らかい腹を撫でながら、想うことは海里のことだった。

ごめん、と言った自分の言葉に海里は傷ついた。当たり前だろう。女の子の唇を奪っておきながら、何て卑怯なんだろうと思う。

一人で勝手に決めてごめん。だけど愛されて育ってきたかけがえのない存在を僕がこれ以上、穢していいはずがない。

「…。」

溜息が漏れて、猫が時生を見る。猫はつまらなそうにあくびをして、駆けて行ってしまった。その行方を目で追うと、先にいた人物と目が合った。

「よ。悩める少年。」

喜一が片手を上げて、時生に話しかけた。近づいてくると、そのままどっかと隣に座った。

「おかえりなさい。実家、どうでした。」

時生が目を細めながら何気なく問うと、喜一は大げさに溜息を吐きながら自らの膝に頬杖をついた。そして時生の額にかかる髪の毛をよけて、ぱちん、と指で弾いた。

「痛い。」

時生は思わず真顔になって手で額をさする。

「痛く弾いたからな。」

「何なんですか、一体…。」

喜一は戸惑う時生を見て笑った。

「八尾くん。一ノ瀬ちゃんにキスしたろ。」

「! 海里から聞いたんですか?」

喜一の口から海里の名を聞いて困惑よりも、嫉妬の方が勝った。

「いや、一ノ瀬ちゃんは名前を伏せて相談してくれていたけど。わかっちゃった。」

てへ、と女子高生のように笑い、舌を出す喜一。うう、と呻く時生の頭をくしゃりと撫でる。

「そんな嫉妬の色を声に滲ませるなら、どうして彼女を泣かせるようなことをしたんだ。」

「…泣いていましたか。やっぱり。」

時生は下向き、唇を噛んだ。

「ちゃんと後悔してる?」

「してますよ…。」

時生の中にどろりとした血液の澱みのような感情が渦巻く。

普通、泣き顔なんて見れたものじゃないだろうが、海里は泣き顔が美しかった。黒く大きな瞳から涙が盛り上がり、表面張力を破って桃のように白い頬に伝う雫はガラスのように透明で、さぞ綺麗だったろうと思う。涙を零すうちに青みがかった白目が、ほんのり赤みを帯びて目は糖分を多量に含みとても甘そうに見えた。カニバリズムは趣味ではないが、相手が海里なら別だ。頭の天辺から足の先まで全て、全て食べて自らの血肉にしてしまいたい衝動に駆られる。

後悔はしている。海里の泣き顔を見逃したことに。

「ならいいけど。ちゃんと、謝罪の意味は一ノ瀬ちゃんに伝えてあげなさいね。わけわからんままの謝罪は意味がないぞ。」

時生の言葉の本位に気付かない喜一はそう言って立ち上がる。腕を真上にあげて背筋を伸ばした喜一に、時生はほんの一瞬だけ殺意が沸いた。海里の涙を目撃したその眼球を掌に転がして潰してしまいたい。

「…はい…、そうですね。ちゃんと海里とは話をします。」

衝動を抑え込み、時生は爪が食い込んで白くなるほどに拳を握りしめた。いつからだろう。こんな仄暗い感情が込み上げてくるようになったのは。自分の本質が人畜無害そうな羊の皮を被った邪悪な狼であることを、時生は早い段階で理解していた。

特に苦しみ、絶望した果ての涙が美しい人が、僕は好きだ。

「きーくん!」

女性らしい高い声に、時生は現実に引き戻された。視線を向けると海咲が嬉しそうに道路を駆けてくるところだった。

「あれ、時生くんもいたんだねえ。座ってたから気付かなかったよー。」

ごめんね、と両手を合わせる海咲に時生は首を横に振る。

「海咲さんの場合、僕が上田さんの隣に立っていても気付かないんじゃないですか?」

「ええー?まあね?」

時生の冗談に美咲も答えるが、あながち冗談でもなさそうなところがすごいと思った。

「二人とも、この暑いのに井戸端会議?部屋に入ればいいのに。」

「海咲の場合、寒いぐらいにクーラーの温度を下げるから嫌でーす。」

そう言って笑い合う仲の良い健全な恋人同士を、時生は見つめていた。これが普通の恋人かと、まるで教科書を見ているような気分だった。

「さて。じゃあ、俺たちは部屋に行くけど。八尾くん、またね。」

手を振って、喜一は海咲を伴ってかぜよみ荘の階段を上って行った。時生も軽く手を振って応えた。喜一と海咲、二人の華やいだ会話が余韻のように残っていた。


「ただいま。」

海里が自宅の玄関で靴を脱いでいると、帰宅に気が付いた母親が廊下まで出迎えてくれた。

「おかえり、海里。八尾くんとは、その、お話はできたの?」

どうやら海里が出掛けてからずっと、気になってそわそわしていたらしい。

「あー…、とんだヘタレだったよ。」

「?」

海里の答えに母親は小首を傾げる。その様子を見ながら、海里は思い出し笑いを浮かべた。

「失ったら戻ることの無い儚さに恋してる割には、その儚さを嫌ってる…みたいな感じ。」

「何よ、それ。なぞなぞ?」

ククク、と笑いながら海里は事の顛末を父親が不在らしいリビングに向かいながら母親に話す。

「あらー。八尾くんって詩人なのねえ。」

「突っ込むところ、そこ?娘、唇を奪われてるんですけど。」

母親は手をひらひらと振って笑った。

「可愛いじゃない。海里、ここは恋の駆け引きよ。」

そう言って、ソファに座る娘に母親は熱弁をする。

「押してダメなら引いてみなってよく言うでしょ。あれ、間違いじゃないのよね。お父さんだって…、」

「ストップ。長くなりそう?」

かなり、と頷く母親の話を断ち切って、海里は背後の金魚が住む水槽を見るために振り返った。相変わらず、金魚たちはマイペースに尾鰭を翻している。父親の影響か最近、金魚たちの体型が丸くなってきた気がする。

「お前たちは、可愛いのにね。」

時生が今は、少し憎らしい。


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