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ごめん。

午前十時の待合わせに間に合わせるために、駅から出た海里は駆けていた。ソファのうたた寝は意外にも気持ちよく寝過ごしてしまったのだ。

「…っは、…、」

呼吸が乱れる。空気は熱く蒸していて、喉の奥から鉄のような味がする。途中、立ち止まってしまうが何とか心を奮い立たさせて、身体に鞭を打って再び走った。やがて校門が見えてきた。信号の赤を恨みがましく見つめて、青に変わった途端にラストスパートをかける。

昇降口を抜けて靴を履き替える。図書室に向かうまでに何人かの近所の住民らしき人々とすれ違い、その度に注意を受けない程度に速度を落とした。そうして図書室の前にやっと辿り着く。

「…。」

海里は深呼吸を繰り返して、息を整えた。流れてくる汗もハンカチで拭い、自らの服に乱れがないか最終チェックをする。右を見て、左を見て、頷いてようやく扉に手を掛けたのだった。

ガラリ、と引き戸の音が響き、空調が効いている図書室から涼しい空気が足元から伝うように溢れ出てくる。滑るように進んで、時生の気配を探った。時生は窓際の一番奥の席に腰掛けていた。横顔は凛々しく、本のページをめくる指は長い。午前の光に透けてアンバーブラウンに髪の毛先が輝いている。思わず、声を掛けるのをためらうほどにその姿は、静かな風景に馴染んでいた。

「…!」

ふと、海里の視線の熱に気が付いたのか時生が顔を上げる。

「海里。」

微笑み、柔らかい声音で自らの名前を呼ぶ時生が、早朝に見た夢の中の時生と重なってしまう。海里は咄嗟に後ろを向いて、瞼をぎゅっと閉じた。心臓よ、落ち着いてくれと思う。

海里の挙動を不思議に思った時生が席を立つ気配がした。

「どうしたの?」

すぐ背後に立たれて、ひょいと顔を覗き込まれる。海里がぎこちなく顔を背けると、くすりと時生が笑った。

「ひゃ!」

時生がいたずらをして、海里の背筋を人差し指でなぞったのだ。肌がぞわりと粟立って、海里は短い悲鳴を上げる。すぐに場所が図書室だということに気が付いて、慌てて口元を覆った。そして時生を軽く睨む。

「ごめん、ごめん。海里があまりにもかわいいから。」

「…いつの間に、かわいいって自然に言えるようになったんですか。」

ようやく普通に話せるようになって、海里は時生と向き合った。

「えーと…、五日ぶりですね。」

「うん。そうだね。」

話ながら先ほどまで座っていた席に戻って、時生は海里に隣に座るように促す。

「窓際がいい?」

「日焼けするから、ここでいいです。」

海里は自らの腕を身ながら答える。補習授業の間に焼けた片腕の肌ケアが大変だったことを思い出して、苦々しく思った。時生は、そう、と頷いて再び、本の表紙を開く。

「…何の本を読んでいるんですか?」

「ん?野生動物の写真家のドキュメンタリーだよ。」

そう言って見せてくれた本は、その写真家が撮ったのであろう銀色の狼の写真が表紙を飾っていた。金色に、緑の虹彩がひまわりのように美しい瞳の狼だと思った。

「海里はちゃんと宿題を持ってきた?」

「…持ってきました。」

図書室で会おうという約束には続きがあって時生は、宿題を見てあげる、とメールの追伸部分に書いていた。

「時生はもう終わったんですか、宿題は。」

「三年生だからね、そんなにないんだ。」

それにしても随分と時生は余裕綽々だ。海里は首を傾げて問う。

「…受験は?」

「僕は専門学校志望だから、あまり関係ないなあ。」

時生は写真の専門学校に通いたいのだという。だからポートフォリオ用の撮影が迫られているらしい。

「さて、じゃあ始めようか。」

海里は苦手な数学をはじめとして時生に教わりつつ、宿題を片付けるのだった。一時間を目安に十分の休憩を入れる。それを二回繰り返して、昼食を摂りに図書室を出ることにした。

「つーかーれーたー…。」

海里はぐったりと学食の机に突っ伏した。海里たちが通う高校の学食は安さゆえに人気で、周囲には一般開放を利用した生徒以外の人間もちらほらと窺えた。

「頑張ったね。」

時生は海里を労い、飲み物を奢ってくれた。いつものペットボトルの紅茶飲料だった。海里が一口、口をつけると時生も分けてほしいと乞う。

「どうぞ。」

「ありがと。」

そう言って、時生はペットボトルに躊躇なく口をつけた。海里がその様子を何気なく見つめていると、時生の唇が目に入った。そして、この唇にキスをしたんだなあ、と間接キスをして思う。ペットボトルを返されて、海里は口を開いた。じっと時生を見つめて、声は擦れることなく滑らかに発することができた。

「ねえ、時生。」

―…私たちの関係って何?

「…。」

海里のささやきにも似た呟きに、時生は押し黙り、そして。すう、と息を吸い込んで時生は苦しそうに顔を歪ませる。

「ごめん。」

周囲の賑わいが一歩遠ざかったような気がした。


海里は環状線の電車に乗って、周回していた。涼しい車内で揺られて、思考回路もぐるぐると廻るようだった。

時生は本当に苦痛を伴ったように、唇を噛み締めていた。大体のことでは傷付かない自信はあったが、言葉より何より、そんな表情をさせてしまったことに海里は胸が抉られたようだった。

『ごめん。』

そんな顔をしないで、と思う。そんな目で見ないで、とも。

たった三文字の言葉が鼓膜を突き破って、脳内に木霊する。時生が表情を歪ませている中で、彼の眉毛がきれいだなと現実逃避をした。そして瞳に海里自身の姿を見つけて、やっと我に返る。

「…。」

その一言で、海里は距離感を間違えたことを悟った。時生が次の言葉を紡ぐ前に海里は席を立っていた。追われる前に荷物を持って出てしまったから、時生は驚いただろう。

車窓の外を眺めていて景色が歪んだことに気が付いて、海里はそっと指で頬に触れた。瞳からほたほたと涙が零れて、肌をしっとりと濡らしていた。

「一ノ瀬ちゃん?」

「!」

急に名を呼ばれて、海里は弾かれたように顔を上げる。そこには喜一が立っていた。いつの間にか大学前の駅に到着していた。

「やっぱり一ノ瀬ちゃんだ。一人?」

「…は、い。」

慌てて涙を拭うと、喜一は海里の泣き顔を見ないように違う方向を見つめてくれていた。

「毎日、暑いね。」

などと世間話をして気を紛らわせてくれるところに、年上の余裕を感じた。

「あの…。今日、海咲さんは?」

「海咲?今頃はバイトの時間かなあ。ちなみに俺はね、ゼミの先生に質問があって実家から直接大学に寄って、その帰りなんだ。」

よく見ると確かに背負うリュックは大きめで、手には喜一の地元のお土産らしきものが下がっている。やっと海里が喜一を見る心持ちになったことに、ほっと安堵しているようだった。

「何かあった?」

そう言って、される心配は弱った心に気持ちよかった。言わないけれど、海里は海咲を姉のように慕っていた。そして連動するように、その彼氏である喜一も他人には思えなかった。

「…。」

何から話せばいいかを迷い、口を開いては閉じる。その間も喜一は何も言わずに待っていてくれた。駅を二駅ほど過ぎて、喜一は電車に備え付けられている液晶パネルを見た。

「あ、最寄り駅はどこ?ちょっと落ち着いて、喫茶店にでも行かない?」

このまま一周するのもいいけど、と喜一は笑った。海里自身の最寄り駅を告げると、喜一は付き合って一緒に下車すると言う。

「すみません…。」

「なんで、謝るの。」

駅に着き、電車を降り、二人連れだって改札を抜けた。駅前にあったチェーン展開されているコーヒーショップに入る。

コーヒーが苦手な海里はアイスココア、喜一はソイラテを注文して席に着いた。

「夏にホットって暑くないですか?」

「俺、店内の冷房で身体冷えやすいんだ。」

少なくとも身体が冷えることを前提に飲み物を注文してくれたのかと思い、海里はひたすら恐縮する。

「さて、と。上田喜一のお悩み相談コーナー、始めちゃうよ。」

おどけたように言い、海里が話しやすい空気を作ってくれた喜一に甘えて海里は口を開いた。

「あの、男の人ってどういうときにキスするんですか?」

海里の思い切った問いに、喜一は目を丸くして次に口元に手を当て考え込む。

「キス?キスねえ…。そりゃ、相手を愛おしく思ったときとか…。」

「他には?理由ってあったりします?」

海里は縋るように喜一に訊く。

「まあ、衝動に駆られることがないわけではないけど。それでもやっぱり、好きな子にしかしないんじゃないかな。」

「…じゃあ、なんで…。」

再び、海里の瞳に涙が浮かび、ほろりと零れた。喜一は机の隅のナプキンを取って手渡してくれる。

「なんで、謝る、の。」

海里はナプキンを受け取って、涙を拭いた後にぎゅっと握りしめた。

「謝る?相手が謝ってきたの?」

喜一は驚いて、海里はこくりと頷いた。

「それはー…、厄介な相手に捕まったね。」

苦笑しながら、喜一は腕を組む。

「その子はさ、きっと…。一ノ瀬ちゃんを好き過ぎるんじゃないかな。」

「?」

海里は小首を傾げて、次の言葉を待つ。

「男って怖がりなところがあるから。恋人へのステップ踏むのを躊躇したんだよ。」

「普通、キスまでしたら腹をくくりません?」

そこが相手の厄介なところ、と喜一は言葉を紡ぐ。

「別れることを先に想像しちゃったんじゃない?で、それなら友人のままがいい。みたいな。」

「何だそれ。」

海里は喜一の推測を聞いて、それが本当なら、と心底呆れた。生まれた瞬間の赤子が、いきなり死に憂いるとでも言うのだろうか。あまりの先走りの早さに、海里は笑ってしまう。

「そうそう。案外、何それって理由だったりするんだよ。まあ、俺も八尾くんには説教しとくから、長い目で見てやって。」

はい、と頷きかけて、海里ははたと止まる。そして、そろそろと喜一を見た。その視線の意味に気が付いた喜一が首を傾げた。

「ん?八尾くんじゃなかった?」

名前を伏せていた筈なのに、速攻でバレていて海里は羞恥に頬を染めるのだった。

飲み終えたカップをダストコーナーで捨て、店を出る。冷房で冷えた肌が真夏の太陽に温められて心地よかった。

「今日は、ありがとうございました。」

海里は喜一に向かって頭を下げる。喜一は笑いながら、その頭をぽんと撫でた。

「頑張って。…あ、そうだ。メルアド、交換しようよ。いつでも相談に乗るよ。」

そう言いながらスマートホンを取り出す喜一に釣られて、海里も携帯電話を取り出した。言われるがままにメルアドを交換して、海里は喜一と別れた。


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