母親の直感
門限ギリギリに帰ってこられたことをほっとしながら、海里は入った風呂を出る。
「お父さーん。お風呂、空いたよ。」
髪の毛から滴る水分をタオルで拭いながら、リビングの父親に声をかけた。
「そうか。じゃあ、入ってくるか。」
読んでいた新聞紙を畳んで、父親は腰を上げた。入れ違いに海里はソファに座って、扇風機を自らに向けて風量を上げる。火照った肌に涼しい風が当たって心地良い。
「今日、ひどく慌てて出ていったけれど、何だったの?」
母親が海里に冷たい麦茶を手渡しながら、海里に問う。
「えー…、ボランティア?」
ありがとう、と言い、受け取った麦茶を飲みながら答えると母親はくすりと笑った。
「なんで疑問形なのよ。いいわ、当てちゃう。男の子関係じゃない?」
「エスパーかよ。」
海里は恥ずかしそうに唇を尖らせると、母親は嬉しそうに身を乗り出してきた。
「わかっちゃうのよねえ、これが。えー、誰?お母さん、知ってる人?」
「…お母さんは知らない、と思う。」
てことは、と目を輝かせて母親は更に海里に問い詰める。
「お父さんは知ってるの?やだー、出遅れたわ。うん?と言うことは、劇団の子かしら。」
海里は首を横に振った。
「高校の先輩。」
「なんでお父さんが知ってるのよ?」
無くした台本を劇団の練習場まで届けてくれたことを説明すると、首を傾げていた母親は目を輝かせた。
「ひょっとして、八尾時生くん?」
「え、ちょっと待って。どこまで情報共有してるの?」
思いがけず母親の口から吐いた時生の名に海里は動揺を隠せない。
「お父さんが海里の友達が来たって喜んでいたけれど、そうかあ。友達じゃなかったかー。」
「友達…だけど。」
今度は海里が首を傾げた。すると母親は驚きに、目を張った。
「彼氏じゃないの!?」
「お母さん、声が大きい!」
慌てて二人で口を噤み、風呂場にいる父親の気配を伺う。僅かに鼻歌が聞こえてくるあたり、リビングで繰り広げられている女子トークは知られていないようだ。
「彼氏って…、いや、でもな…。」
海里は時生から直接、好意が含まれた言葉を聞かされていないことを思い出す。以前、『恋人』の単語を口にしてはくれたものの、その場をごまかすためだと言えばそれはそれで納得してしまうほどの曖昧なニュアンスだった。
「…キスをしたら、彼氏?」
海里はキャミソールの裾をぎゅっと握って、蚊の鳴くような小さな声で呟いた。母親は女性として、人生の先輩としての顔に変わる。
「少なくとも、友達ではないわね。」
「そ、そっか…。」
友達以上恋人未満という状況がまさか己の身に降りかかるとは思わなかった。海里が思考の整理に時間をかけていると、母親は感極まったように目元を押さえた。
「何故、今、泣く?」
海里は母親の挙動に驚いてカタコトになる。
「だって、嬉しいじゃない。娘と恋バナをするの、お母さんの夢だったんだもん。」
「だもん、って言われもな。」
呆れる海里に、でもね、と母親は言葉を紡ぐ。
「節操のあるお付き合いをしなさいね。避妊はちゃんとするのよ。話の流れから察すると告白はまだなのかしら。心配だわ。」
「あー…。」
告白よりも先にキスをしたという話は、些か母親を不安にさせてしまったようだ。
「ごめん、お母さん。ちゃんとする。今度会ったら、きちんと話をするから。」
これから手を繋いだり、ハグをしたり、キスをしたり、さらにその先に進むとしてもこの関係には名前を付けた方が健全であるだろう。
「頑張ってね、海里。で、良かったら八尾くんを家に連れてきてちょうだい。」
海里の手を握って、母親はよろしくねと念を押す。説教でもするつもりなのかと思ったらどうやら只々、時生という男の子を見てみたいという好奇心らしい。我が母親ながらミーハーと言うか、野次馬根性たくましいと言うか。
そこまでで話に決着をつけると、丁度良く父親が風呂から上がり機嫌よくリビングに入ってきた。
「海里ー。洗面器にいる金魚に餌を与えてもいいかい?」
今、水槽に溜める水のメンテナンスをしている最中で、祭りから連れ帰ってきた金魚たちは洗面器で待ちの状態だ。以外にも金魚を喜んだのは父親で、積極的に世話を買って出てくれている。
「ん?どうした?」
リビングに漂う空気を敏感に感じ取って父親は首を傾げたが、当然、今までの話は海里たち女の秘密だ。
「何でもないですー。あ、金魚に餌は与え過ぎないようにね?太っちゃうから。」
「そうか。太った金魚ってかわいいと思うんだがなあ。」
海里はピンポン玉のように膨れた金魚を想像した。
「…かわいい、かも。」
そうだろそうだろ、と頷く父親は満足気だった。
団らんを終えた、その日の夜のこと。海里は寝る仕度を整えて自分の部屋に行き、扉を閉めた。自分一人だけの空間になって、海里は夕方の時生とのキスを思い出していた。
あんなに人の唇が気持ちいいだなんて、思いもしなかった。柔らかくて、温かくて、少し震えていたのはどちらのせいだったか。
胸の内側からぎゅっと握られたかのような、甘い疼痛が海里を襲う。
「~…っ!」
心臓の鼓動を落ち着かせるようにその位置を手で押さえて、扉に寄り掛かりながらずるずるとしりもちをついた。きつく目を瞑って、頬を軽く二回叩く。はあ、と呼気を漏らして、海里は四つ足になってテーブルまで這って行った。そして、置いてあった携帯電話を手に取る。かちかちと操作して、メールの送信フォルダを引っ張り出した。そして一通のメールを認めて、震える指で送信をした。
『今度、いつ会えますか。』
それは、時生に宛てたメールだった。まだか、まだかと返信を待つ間、携帯電話からそろそろスマートホンにしても良いかもなと思いつつあった。
もっと気軽にチャット感覚で会話できるアプリを使ってみたい。綺麗に写るカメラで思い出を切り取りたい。あわよくば、機能の使い方を教わるふりをしてもっと近づきたい。
必要最低限の機能が付いていればいいと思っていたが、欲張りになる自分がいた。だが、嫌な気分ではない…と思ったところで、着信を告げるメロディーが鳴った。
『高校の一般開放日に図書室で会わない?五日後になるけれど。』
五日後、自らの気持ちを整えるには丁度いい猶予だろう。海里はすぐに了承した旨をメールで伝えた。
しばらく携帯電話の文面を眺めて、海里は再びテーブルに置いて自分はベッドに寝転んだ。扇風機が回る音、蚊取り線香の香りが僅かに漂っている。三日月ながら、今日は月光が明るい夜だった。部屋にタオルケットに包まって自分を自身で抱くように丸くなって、眠りに落ちていった。
海里の名前を何度も、何度も繰り返し呼ぶ優しい時生の声が響く。それは雫が落ちた水面に浮かぶ波紋のように広がっていく。
時生の手は恐る恐る海里の頬に触れて、口先に唇を落とす。手の指が絡まり合い、吐息も何もかもを緩やかに穏やかに食い尽くされていく感覚を得た。
抱き合い、素肌と素肌が密着するように触れて、融け合っていった。
「…っ!」
海里は飛び起きた。心臓が大きく脈打って痛いほどだった。ベッドサイドの時計を見ると早朝の四時を少しすぎたところで、部屋の中は水槽の中のようにまだ蒼く薄暗い。
「何て、夢を…。」
祈るように両手を合わせて口元を覆う。まだ経験はないけれど、今の夢はセックスをする夢だ。痛みのない、ひたすらに快楽だけを得る行為の内容に海里の身体の奥が熱を持ったように疼く。
今日は初めてのキスをした日から五日後。時生と会う日だ。特別に意識しないように、いつもの自分で会うためにこの猶予を最大限に利用してきたはずなのに、いよいよ当日で最大の爆弾が投下されてしまった。
まだ高鳴る心臓を落ち着かせるために一杯の水を求めて、海里は階下に降りてみることにした。しんとした廊下を歩き、両親を起こさぬように静かに階段を下る。リビングを抜けて、キッチンに立ち水道からコップに並々と水を注ぎ、仰いだ。
ふと溜息にも似た呼気を漏らし、もう眠る気にもなれずに海里はリビングのソファに腰掛けてみた。冷蔵庫が唸る音と共に、水が循環する音が聞こえる。ソファの後ろの出窓には金魚が住む水槽が置かれていた。海里は背もたれに頬杖をついて金魚を眺める。
四匹の金魚たちは優雅な尾鰭を翻して、朱色の金魚を輝かせていた。水の白い泡が弾けていく様はあの海の中を思い出させた。
底の知れぬ海は怖かったけれど、時生が一緒に海で浮き輪を以てして漂ってくれた。ゆらゆらと揺れる水面は温かく、思わず海里は胎内の記憶のことを吐露してしまっていた。時生はバカにすることもなく、引くこともせず真摯に聞いてくれたのは記憶に新しい。
嬉しかった。双子で生まれるはずだった片割れの生が認められた気がした。
海里はこつんと金魚の水槽を突いてみる。振動に反応した金魚が餌の時間と間違えて、水面を食む様子が可愛らしかった。
水の音と金魚の癒しから、とろりとした眠気が海里に訪れる。二階の自室に行く気にもなれなくて、海里はうとうととソファで横になって微睡むことにした。
カタン、と新聞紙が配達員により郵便受けに届けられる頃、父親はいつも起き出す。パートナーを起こさぬようにベッドから出ると、のそのそと熊のように着替えを済ませた。階下に降り、郵便受けの新聞を取ってリビングに向かう。
「…おっと。」
あくびをしながら扉を開けると一番に、何故かソファで眠る娘が目に入った。海里は胎児の様に丸まって、健やかな寝息を立てている。
「…。」
父親は辺りを見渡して、母親が使うひざ掛けを持って来て海里の身体の上に被せた。ひざ掛けが肌に触れた瞬間、海里はごそりと身動ぎ、起こしてしまったかと思ったがどうやらまた眠りに就いたようで安心する。
ふと、海里の左手首の傷痕に目が行く。生々しい血が滲んだ当時の傷を思い出す度に父親の胸は張り裂けるようだった。本人は衝動的なもので死ぬ気はなかったと言うが、自分の娘が自傷するほどに思い詰めていたことに気が付けなかった自分が憎い。本当に、本当に死ななくてよかったと心から安堵した。海里の自傷行為はその一回だけだったが、いつ、繰り返されるかもしれないと人知れず怯えていたのは内緒だ。
海里は最近、また良く笑うようになった。滲む嬉しさに、手先足先の指から温くなっていくようだった。
「よかったなあ…。」
ポツリと呟いて父親は海里の小さな頭を撫で、目覚めのコーヒーを淹れるべくキッチンに向かった。




