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名前を呼んで。

海里が雑誌『マチソワ』に載ったことは、どこからか周知の内となり高校でも話題に上がることが多くなった。生徒たちは海里とのすれ違いざまに好奇の視線を注いだ。

『―…あのゴスロリの子でしょ。結局、目立ちたがり屋なんだね。』

『対して可愛いわけでもないのに、女優気取りとか。笑える。』

クスクスと笑われることもあれば、今まで喋ったこともない演劇部の同級生に入部を勧められたりと人の反応それぞれだった。海里はその都度、冷静に対応していた。心無い言葉は基本、無視。演劇部の勧誘は丁寧に断ったつもりだった。だが、ちょっとした諍いが起こってしまった。

ある日の放課後。二年生と三年生の上級生に呼び止められた。彼女らは演劇部の上級生だと名乗った。「ちょっとついてきて」と言われ、嫌だったが従わないとより面倒なことになることを理解して、海里は後をついていった。そして連れてこられたのは、誰もいない視聴覚室だった。

「一ノ瀬海里さんだっけ。多分、うちの一年が入部について話に行ったと思うんだけど。」

海里は同級生の顔を思い出そうとして、思い出せなかった。所詮、それぐらいの関係だ。

「その件はお断りしたはずですが。」

冷淡ともいえるほどの口調と答えに、上級生はわざとらしく大きなため息を吐く。

「一ノ瀬さんさあ。ちょっと調子に乗ってない?正直、一ノ瀬さんみたいな人がいると演劇部の士気が下がるんだよね。」

「部員でもない人間が『マチソワ』で取材受けるとか…演劇部としては結構、やる気が削がれるのよ。」

仲間に引き込むことで、海里が得たさささやかな名声すら自分たちのものだと勘違いしようという浅はかな考えが手に取るようにわかってしまった。面倒だな、と思う。視線を逸らすという、海里の現実逃避をするときの悪い癖が出てしまう。それに気が付いた上級生は火に油を注がれたかのように怒りをあらわにした。

「ちょっと、ちゃんと聞いてるの!?」

「話を聞けば、あんたが所属してる劇団の団長って父親らしいじゃん?七光り?えこひいき?それなのに、自分には才能があるとか思っちゃったんじゃない。」

キャンキャンと鳴く小型犬みたいだな、と思った。まだ犬の方がその容姿で可愛げがあると言うものだ。どちらにしろ、そろそろしつけが必要な頃合いだろう。

「親の七光り、えこひいき、上等です。演劇をしているのなら、運のめぐり合わせがいくらか必要なのは先輩方も承知の上ではないのでしょうか。」

舞台の上でスポットライトを当たるためには、いくつもの偶然が必要だ。役柄と役者の一致。その者の演技力。俳優としての華の有無。そして名もなき新人に以外にも力を発揮するのが、自らの出自。芸能界では二世タレントなどというジャンルすらある。生まれたその瞬間からある程度の知名度がある状態は武器だ。

「演劇部員ではない私が役者として雑誌に取材を受けたぐらいで下がるモチベーションなんて、必要ですか?」

海里は小首を傾げて微笑んで見せる。

「随分とくだらない矜持をお持ちのようですね。」

その笑みは自分の国を守る女王であり、最前線を行く騎士のようでもあった。

「何、こいつ…っ!」

激昂した一人の上級生が平手を振り上げた。ひゅっと空気を切る音が統べって、海里は来る衝撃に構えた。パンッと小気味よい乾いた音が響く。が、一向に痛覚が現れない。反射的に閉じた瞼をゆっくりと持ち上げると、そこには時生が盾になって毅然としていた。

「…手を上げるのはどうかと思うけど。」

時生の頬は叩かれた衝撃で紅く腫れている。それでも静かに相手の怒気を下げるように、時生は言葉を発する。それでも上級生、時生から見れば同級生と後輩の彼女らは声を荒げた。

「いきなり首突っ込んでこないで!」

「いきなりでもないんだけどね。最初から会話を聞いていたし。」

気付かなかったのはそっちでしょ、と時生は呟く。

「とにかく、言い争いならまだしも暴力沙汰はまずいよ。」

「そっちが悪いんじゃない。私たちをバカにして。」

尚、海里を睨む彼女たちの視線を遮るように時生は前に出た。

「バカにされたと思わせたなら、ごめん。恋人の不祥事は僕が謝るからここは許してくれないかな。」

時生の海里との恋人宣言に、双方から声が上がった。

「え。」

「はあ!?」

困惑の声を聞きながら、時生は頭を下げる。

「海里のことは放っておいてくれ。その方がお互いの精神衛生上に良いと思う。」

「意味わかんないし!気持ち悪…。」

演劇部の三年生と二年生は、「もう行こう」と言い捨て、ばたばたと視聴覚室から駆けて出ていった。扉が勢いよく閉まって、静寂が訪れる。

「ええと…、」

海里が額に手を当て、天を仰ぐ。そして時生を見やった。

「どこから突っ込めばいいのかわからないのですか。まず…いつからここにいたんですか。」

「いや、だから、最初からかな。一ノ瀬さんがあのおっかない人たちに連れてこられる途中に見かけて。後を追ってきた。」

扉の影で止めるタイミングを見計らっていた、と時生は言う。

「所在の件は承知しました。じゃあ、次。何故、私を庇ったんですか。」

「え、人が殴られそうになったら止めるでしょ。」

時生は、当然のことだとばかりに目を丸くする。人がいいとは思っていたがこれほどとは、と海里は小さく溜息を吐いた。

「質問はこれで最後にします。『恋人』ってなんです?」

「愛し、愛される人?」

そうじゃなくて、と海里は首を横に振った。

「いつから私たちは恋人同士になったのか、って意味です。」

「ああ。話に臨場感があった方が、あの人たちは言うことを聞いてくれるかと思って。」

あなたには関係ない、という常套句対策に思わず口を吐いた。

「俺の彼女に手を出すなって言ってもよかったけど、それだと話が長くなりそうだったから謝ってみた。」

「…そんなことを言ったら私とセットで嫌われると思いますけど。」

海里が顎に手を当て、考えて指摘をする。

「一ノ瀬さんと一緒なら、別にいいよ。」

一緒に落ちてもいいだなんて。とんでもない殺し文句だと、海里は思った。今更ながら、時生の頬の紅い腫れが愛おしく見えてきた。

「…。」

「一ノ瀬さん?」

海里は気付くと、無意識に時生の頬に手を伸ばしていた。そっと触れた頬は熱を持ったようにじわりと温かい。時生の肌は少し乾燥していて、さらりとしていた。

「…ごめんなさい。痛い、ですよね。」

何故、狙いを定めて相手を痛めつけようとしないのか。時生の頬を張った上級生が憎かった。

「いいや?驚きの方が勝ってたのか、そんなに痛みは感じなかった。」

「これ、後々に腫れますよ?」

そう?と時生は首を傾げるように、海里の掌にすりと頬をこすりつける。そして自らの手を、海里の手に重ねた。

「一ノ瀬さんの手、冷たくて気持ちがいいね。」

猫が匂いをマーキングするような仕草に、海里の母性がくすぐられる。

「…なんで、名字…。」

「ん?」

時生が閉じていた瞼を開けて、海里を見る。その瞳に映る海里は恥ずかしそうにしていた。

「さっきは海里って呼んでくれたのに、何故、今は名字呼びなんですか…。」

「…嫌、かなあって。さっきは思わず、だったけど。」

どうでもいい人間には、何だって言えるのに。時生にわがままを言う勇気が出なくて海里は唇を噛んで、視線を逸らす。頬に触れていた手を引っ込めようとすると、時生に握られて制止された。

「海里。」

「!」

名を呼ばれてはっとして顔を上げると、いつになく柔らかく目を細めた時生が乖離を見ていた。

「海里って呼んでも良い?」

家族や劇団員の他に久しぶりに呼ばれた自分の名前は、ひどく甘く、中毒性を孕んだ響きに聞こえた。掴まれたように胸が痛く、きゅっと下腹部に力が籠もる。

「良、いです…。」

声が擦れて、震えてしまった。自分の痴態を晒してしまったかのような羞恥心に晒されて、海里は再び顔を伏せる。その様子を見て時生はふと笑って、そして提案する。

「じゃあ、僕も名前で呼んでくれる?」

「え!?」

思えば当然のような時生の提案にすら、海里は困惑で声を上ずらせる。

「時生。言って?」

「…。」

言い淀み、海里は酸欠の金魚のように口を開閉する。

「時生。」

時生は海里の反応を見て楽しそうに笑って、繰り返した。

「…時、生…?」

思わず、疑問形になってしまった。

「うん。何?」

それでもぽとんと海里の口から発せられた自らの名前に、時生は破顔した。

「も、もういいでしょ!?手を離してください!」

「はい。どうぞ。」

時生がぱっと掌を開いて解放すると、海里は天敵のヘビを見た猫のように飛び上がって後ずさった。その様子が可愛らしくて、時生はいよいよ腹に手を当てくの字になって笑った。

「わ、笑い過ぎです!」

「ごめん。ごめんね、海里。」。

全くもう、と海里は頬を膨らませた。

「八尾せんぱ…、時生、は意地が悪いです。」

「さっきの人たちよりはましでしょ?」

当たり前のことを言って、時生と海里は共に視聴覚室を出たのだった。

その日を境に演劇部から噂は流されて、二人は告白すらしていないものの先走って学校中公認の関係となった。


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