桜にキスを。
八尾時生には愛を誓う指がなかった。中学生の時、誤って切断してしまった。
高校に進学し、部活は写真部に入部。幽霊部員の一年生が二人、二年生の部長が一人。時生を入れればたった四人の部活は何のしがらみもなく、自由に部室兼暗室を使える環境はとても魅力的だった。あっという間に生温い二年が過ぎて、高校最後の年。三年生になり、部長の肩書きを引き継いだ春。時生は構内に咲く桜並木の写真を撮影していた。
熟れた桃のような花芯からひらひらと花びらが散り、まるで温かい雪のようだと思った。カメラのフィルムにその姿を収めながら、ふと思い出したかのように掌を差し出してみた。掌に注がれる花びらは当然溶けることなく、そのまま肌の上に残る。ぎゅっと拳を作って握りつぶすと、無様にも皺が寄って開いた掌からするりと落ちていった。
自らが犯したささやかな罪に時生は、くくく、と鳩のように笑って、落ちていった花びらも桜吹雪同様に写真に残す。
それからは生きている桜の花々を写していった。風が吹き、桜の花びらが千切れる瞬間。すずめが花芯を啄む刹那。相反した蒼穹を背景に咲き誇る一振りの枝。
「…何だ、あれ。」
ふと、異質なものを見つけて時生はカメラのレンズから視線を外す。それは、一人の少女だった。
少女は全身をゴシックロリータのファッションに身を包んでいた。漆黒のレースが折り重なったジャンパースカートに、墨色のブラウス。胸元は大きな黒いサテン生地のリボンをあしらって、丁寧に足元まで黒いストラップシューズ。全身黒づくめの少女は、時生に気が付いていないらしく鼻歌をうたいながら軽快なステップを刻むように歩いていた。途中、くるりとバレリーナのように回転し、ふわりとそのスカートの裾を綺麗な円錐に広げては楽しんでいる。淡い桜の花に交わることの無い黒は、時生の目に眩しく映った。
長く黒い真珠のように輝く髪の毛を翻して、少女は一本の桜の木の前にもたれるように立つ。その木は一等大きい、樹齢の長い桜の中のシンボルツリーだった。少女は桜の木を抱きしめるように腕を回して、そして、木の肌にキスをした。
時生は自然と身体が動いていた。カメラを構えて、レンズを覗く間もなくシャッターを切っていた。そのパチリと軽快な音に、少女は小動物のように肩を震わせて時生は見た。ようやく自分以外の存在に気が付いたらしい。
「あ…。ごめん、」
「…。」
少女は水に濡れたガラス玉のような瞳を大きく見開いて、時生を見つめて、そして。
唇をきゅっと結び、小さく時生を睨むと気踵を返して校舎に向かって駆け出して行ってしまった。
「行っちゃった…。」
いきなり知らない人に写真を撮られたら、当たり前の行動だろう。時生は人差し指で頬をかく。いつもならこんな無礼な真似はしないが、あの瞬間を逃すことができなかった。
今日は、高校の体育館で入学式が行われている。生徒の中で見たことの無い少女は恐らく、今年の新入生だろう。時生が通う高校は自由服の学校で、制服がない。少女のような服装の子は目立つはずだ。また、会えるだろう。
「ん?」
そこまで考えて、少女は入学式をサボタージュしていたことを知った。
「だめじゃん。」