表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

何者にもなれなかった三十路コンビニ店員にざまぁ展開などあるはずも無く

作者: 不安寝
掲載日:2023/01/22

 季節外れの寒波が列島を覆い、吹き付ける北風は鋭利なナイフのようだった。先ほどまで照らしていた月の光も雲間に消え、郊外の一角を夜明け前の重苦しい空気が覆っていた。


三十路近い田中圭の気力を削るにはその寒さは十分すぎるものだった。肺の中に入ってくる空気が、死人の手のような冷たさで彼の心臓を撫ぜた。彼は制服の上に羽織ったジャンパーのチャックを目一杯上げ、そそくさとゴミ捨て場を後にした。


 彼はアスファルトで舗装された道を辿り、白い息を吐きながらコンビニの裏口に手をかけた。ドアノブの冷たさは、おおよそ彼を歓迎するようなものではなかった。


*


「ありがとうございました」


 無表情の感謝は、曇天の空色をよく表していた。田中にとってその言葉は、商品を清算し終えた合図でしかなかった。


「次の方どうぞ」


 彼は名札のずれを片手に直しながら、列に並ぶ客を促した。


 次の客はサラリーマンだった。彼は缶コーヒーとおにぎりを投げ出すようにレジ台に置いた。


(この人か)


 彼はよれた袖口から覗く金縁の腕時計をよく知っていた。その男性は平日朝七時丁度に現れるサラリーマンで、せっかちな性分かレジ待ちの間脚先で床を叩くのが癖らしかった。今時珍しく現金で会計を済ませ、足早に店を立ち去る姿が田中の記憶にあった。


 こんこんこん、と今日もサラリーマンの足元から音が聞こえた。田中にはその音が自分を急かしているようにも、サラリーマンが焦燥に駆られているようにも聞こえた。


 田中が金額を伝えると、サラリーマンはポケットから財布を取り出し小銭を漁った。彼が財布を振るとその度に金縁の腕時計が揺れた。まるで腕時計が獲物から離れまいと絡みついているようだった。サラリーマンは何度か財布を振ったあと、ため息し五百円硬貨を取り出した。彼は会計を済ませると、田中の合図を待つことなく缶コーヒーとおにぎりを引っつかみ、足早に自動ドアを潜っていった。


「次の方どうぞ」


 田中はその様子を尻目に見ながら、手を挙げ次の客を促した。


 次に来た客は初めて見る女性だった。二十代前半だろうか、足元の黒いブーツは艶やかで、細い脚をより一層魅力的に映していた。視線を上に向けると、膝下まで届くダッフルコートが彼の目に入った。それは新雪のような柔らかく、真っ白な生地で、最上級の品質だと彼は一目でわかった。ウェーブのかかった亜麻色の髪は輝き、ハーフアップにまとめられていた。


 しかし最も田中の目を引いたのは彼女の手であった。彼女の左手の薬指には大粒のダイヤモンドがあしらわれた指輪がはめられていた。それは権威を誇示するかのように、ギラギラと光を反射していた。


 十年の勤務経験から、服装と風貌の質感が似ることを田中は知っていた。だが、煌びやかな衣服を纏う女性の前髪はところどころほつれ、鳶色の瞳には疲労と諦観の色が混じっていた。さながら、左手のダイヤモンドが女性の生気を吸い取って成長しているようだと田中は思った。


「あの」


 鈴を転がすような声が思考の泥から田中を引き上げた。


「あっ、すみません」

「いえ……」


 すでに商品はレジ台の上に置かれていた。彼はその一つを手に取り、バーコードリーダーに当てがった。ピッ、ピッとバーコードを読み取る無機質な音が店内に響く。清算の最中にあっても、彼女の手に光るダイヤモンドに彼の意識は引っ張られていた。薬指、つまりは結婚指輪だろうか。これほどまでに大きな宝石だ、結婚相手は名のある資産家に違いない。順風満帆ではないか。なのにどうして――。


「――あのっ」


 はっと田中が顔を上げると、怪訝そうな彼女の眼差しが彼の眼に入った。彼女は彼の視線に気が付くと、左手を隠すようにコートのポケットに引っ込めた。


「すみません」


 彼は慌てて清算した商品を袋に詰めた。商品を手渡すと彼女は一礼し、店の出入り口へと向かっていった。


 彼はその後業務を続けたが、その脳裏にはダイヤモンドが鈍く光り続けていた。


*


 シフトの時間を終え、バックヤードに田中は戻った。


「お疲れ様でした」


 声を向けた相手は店長の辻井だった。辻井の小太りの体型と禿げかかった頭頂部を見て、田中はいつものようにダルマを思い浮かべた。


「明日の件、どうだ?」


 辻井は目の前のパソコンから顔を離さず、作業を続けながら淡々と田中に問いかけた。


「ああ、シフトの件ですか。どうと言われても、もう十連勤ですよ。流石にちょっと……」

「ちょっと? ちょっと何?」

「……厳しい、ですかね……」


 田中は制服の首元が急に絞まったかのような息苦しさを覚えた。言葉に生える棘はいつものことだったが、疲れた身体には深く突き刺さるようだった。


 回転椅子を鳴らしながら辻井は田中に向き直った。顔は柔和そのものだったが、目は笑っていなかった。


「現状をわかって言ってる? 一ヶ月前に立て続けにバイトが辞めて、一週間前に雇ったやつも飛んで、今人員的にかつかつな状況だよ」

「はい」

「あんたのお母さん、あんたが社会でやっていけるか心配してるって聞いたぞ。あんたもいい歳してアルバイトなんだ、こんなことで弱音なんか吐いてたら一生このままだぞ?」


 確かに田中の母は自分のことを人一倍気にかけていた。誰から聞いたんだ、と田中は歯噛みした。このことを話した同僚の女性を田中は思い浮かべた。年下の女性ということもあり、つい口を滑らしたことを田中は後悔した。彼は彼女への復讐心と辻井への苛立ちから抵抗を試みた。


「佐藤がいるじゃないですか」

「さ、佐藤は今関係無いだろう」


 強い口調で返されることを予期していなかったのか、辻井は目に見えて動揺した。たたみかけようと田中が口を開こうとすると、ガチャリとドアの開く音がした。


「あっ、取り込み中でしたかぁ?」


 顔を半分だけ覗かせたのは田中が口を滑らせた相手の佐藤だった。辻井は椅子から立ち上がり、田中の横を素早くすり抜け佐藤に近づいた。


「いやいやいや、全然大丈夫だよ」

「よかったぁ、なんだかお話してたみたいだから」


 佐藤はそういうと、彼女専用のパイプ椅子に腰掛けた。


「今日も疲れたあ、辻井さんもっと楽ちんな仕事回してくださいよぉ」

「まあまあ、お疲れ様」


 佐藤はウェーブのかかった髪を指先で弄びながら、不満そうに口を尖らせた。辻井は椅子に座る佐藤の横に陣取り、同意するように頷いた。媚びるような佐藤と満更でも無さそうな辻井を見ているうちに、田中は自分の中の何かが急速に冷めていくように感じた。


「辻井さん、シフトの件ってどーなってますぅ? どぉーしても外せない用事が明日あってぇ」

「もちろん、大丈夫だよ。なっ、田中?」


 二人の目がぎょろりと田中の方を向いた。四つの目玉は承服以外許さないと言っていた。椅子も壁もロッカーも、この空間にあるもの全てが自分を非難しているように田中は感じた。第一ボタンまで閉められた制服の襟が首を絞め上げ、彼は声も出せなかった。


「ありがとうございます、センパイ」


 沈黙を肯定と受け取ったのか、彼女はにこやかにそう告げた。田中はその感謝の言葉は自分がいつも客に向けているものと同じだと他人事のように思った。


*


 コンビニからの帰り道、田中は公園に寄り道をしていた。その公園は砂場と鉄棒、それと花壇の前に置かれたベンチのみというやや殺風景なものだったが、彼は毎回帰り道に足を運んでいた。


「シロ」


 彼が寄り道をする理由は、ベンチの上に鎮座している白猫だった。白猫はくぁ、と大きく一つあくびをすると、彼に近づいた。撫でろとばかりに晒された首には首輪がついており、「シロ」と書かれたネームプレートが揺れていた。


 彼がその白猫と出会ったのは三年前だった。出会った当初は首輪はつけておらず、彼は名前もわからないのでいた。なので彼は白猫を「ねこ」と呼び、猫もそれに応えていた。だが、いつのまにか立派な首輪が付けられ、「ねこ」は「シロ」になった。


 彼は要望に合わせて首元に手を伸ばすと、シロは満足そうに目を細めた。彼がシロを撫で回していると、視界からシロが突然居なくなった。見上げると、だらんと手足を出すシロと、それを抱えて呆れた表情をする妙齢の女性がいた。彼は腰を上げて女性に会釈した。


「いつもシロをあやしてもらってすみません」

「いえいえ、元気をもらってるのはこちらの方ですよ」

「また勝手に家を抜け出して……。ほんと探すのに苦労したんですから」

「またですか」

「またです」


 彼は苦笑しながら、抱えられたシロを見た。その表情は不服という感情をこれでもかと表しており、情け無く抱えられている姿と表情のギャップにあやうく彼は吹き出しそうになった。


 その後も彼は飼い主の女性と二言三言会話し、別れを告げて公園を出た。


「もう、いつも言ってるでしょ。勝手に――ギャッ」


 背後で何か聞こえたが、田中は口角を少し上げただけで振り返りはしなかった。


*


 田中は家に帰ると、ジャンパーを脱ぎ捨て、制服姿そのままに乱雑に積み重なったスケッチブックの一番上のものを手に取った。


 彼はスケッチブックを開き、まだ白い部分が残るページを探した。パラパラとめくると、色とりどりの宝石の模写が現れては消えた。真っ赤なルビーが描かれたページを見つけ、彼は手を止めた。そのページの左下にはお目当ての空白があった。


 彼は部屋の窓際にある机に、携帯とスケッチブックを置いて椅子に腰掛けた。彼は携帯を操作し、「母さん」と書かれた留守番電話の録音をスピーカーモードで再生した。


「もしもしケイ? 聞こえてる? 最近調子どう? 近ごろめっきり顔出さなくなったじゃない。風邪とかひいて倒れてないでしょうね」


 彼は床に転がった五センチ程度の鉛筆を手に取ると、スケッチブックの小さな空白に筆を走らせた。


 携帯からはため息が聞こえた。


「……あなた、まだ諦めてないの? もうそろそろいい歳よ。腰を落ち着ける時期じゃないの。そりゃあ昔は応援してたわよ。でもこのご時世、歳をとると取り返しがつかないじゃない」


 下書きが終わり、彼は鉛筆の芯の腹を使って陰影をつけ始めた。


「ほら、あなた、今のアルバイト先で社員になれるよう掛け合ってみるのはどう? あそこの店長、すごく愛想良かったじゃない。ああいう人柄だったら私も安心して――」


 絵が完成に近づく。それは今日見たダイヤモンドだった。触れれば固い触感が返ってきそうなほど緻密な描写だった。だが、スケッチブックの平坦なそれは光を発しておらず、くすんでいるようにさえ彼には感じられた。


 彼は意を結したように机の引き出しから便箋を取り出した。彼は鉛筆をボールペンに持ち替え、便箋の右上にペン先を当てた。だが、ペン先が動くことはなかった。彼は泣きそうな顔になりながら、その便箋をぐしゃぐしゃに丸め、机の横にあるくずかごに投げ捨てた。


*


 朝の日差しは郊外のこのコンビニにも例外なく差し込んだ。だが、明るい店内と対照的に、レジの周りの空気は澱んでいるようだった。


「ありがとうございました」


 田中の声に抑揚は無く、業務をこなす姿はさながらロボットのようだった。


「次の方どうぞ」


 レジ台に缶コーヒーとおにぎりがそっと置かれた。田中は客の方を見ることなく、商品をバーコードリーダーに当てた。


 田中が金額を伝えると、チャリ、と音がした。田中は顔を上げ、その日初めて客の顔をはっきり見た。


(いつものサラリーマンだ)


 サラリーマンは財布を振り、目当ての硬貨を探していた。その動作はいつになく緩慢で、どこか余裕があった。田中は手持ち無沙汰から、なんとなしに店内の壁掛け時計を見た。時計の針は八時を示していた。


「これで」

「あっ、はい」


 気がつくと、金銭を受け取るトレーに硬貨が出されていた。額面は必要な金額丁度だった。サラリーマンは清算を終えると、商品を手に取ってその場を後にした。その後ろ姿の手首には、いつもの金縁の腕時計は無かった。


「どうされました?」


 田中ははっと前を向いた。声の主は黒のスニーカーを履き、上下白色のジャージ姿の女性だった。初めて見る出立ちだったが、彼にはその鈴を転がすような声に聞き覚えがあった。彼は記憶を辿り、昨日のダイヤモンドを身につけていた女性に行き着いた。彼は驚いた。当時の彼女の目は諦観をまとっていたように彼には見えたが、今は彼女の目に力強ささえ覚えたからだ。


「いえ、なんでもないです」


 商品は既に台に置かれていた。彼はその一つを手に取りながら、ちらと彼女の左手を見た。


「ぇ」


 彼は衝撃を受けて固まった。無い。無いのだ、ダイヤモンドが。彼を魅了した美しいダイヤモンドは彼女の左手から消えていた。彼女の薬指には指輪の跡が薄く残っているだけだった。


 彼女は固まった彼の視線の先に目をやると、納得したような表情の後、悪戯っぽい笑みを口元に浮かべた。


「ああ、売ったんです」


 彼は彼女の言葉に驚愕し、遂に氷像と化した。その顔が可笑しかったのか、彼女は口元を押さえてくつくつと笑い、目を細めた。その笑顔は少女然としていて、朗らかなものだった。


*


「お疲れ様でした」


 田中はふらふらとした足取りでコンビニを出た。長丁場のシフトとダイヤモンドの衝撃で彼は疲れ切っていたが、習慣は彼を公園へと向かわせた。陽は沈みかけており、街の影は長く伸びていた。


 田中は公園に着くとシロを探した。シロはいつものベンチにいつものように座っていた。薄暗がりの中、美しい白い毛並みは柔らかく光るランプのようだった。彼はとなりに腰掛けると、シロの首元を撫でた。気持ち良さそうに喉を鳴らす姿に、田中はいつもの赤い首輪がないことにそこで初めて気がついた。


 撫でるのを止めると、シロは田中をじっと見つめた。そのエメラルドの瞳は澄んでいて、田中の顔がその奥に見えた。街の雑音は遠くなり、シロの瞬きの音さえ聞こえそうだった。数秒か数十秒か経った後、シロは田中の腕の中からするりと抜けると、振り返らずてくてく歩いていった。田中が我に帰るとシロはすでに公園から出ようとしていた。


「ねこ」


 咄嗟にでた言葉に田中は驚いた。彼はどうしてそれが自身の口から発せられたのか、わからなかった。


 それでも白猫は顔だけこちらに向け、にゃん、と満足げに短く鳴いた。その後すぐに前に向き直り、歩みを再開した。その足取りはとても軽やかなものだった。


*


 田中は自宅に帰ると制服姿そのままベランダに向かった。彼は塗装の剥げかけた手すりに手をかけ、目を閉じた。風はさらりと頬を撫ぜ、頭上の月は明るかった。不思議と寒さは感じなかった。


 彼は空を見上げた後、踵をかえして部屋に戻った。スケッチブックの山の上に制服を脱ぎ捨て、彼はくずかごから丸められた便箋を取り出した。彼はそれを机の上に広げ、昨日の続きを書き出した。


 窓から注ぐ月明かりが、制服とスケッチブックを照らしていた。

拙作を読んでんいただきありがとうございます!

よろしければ評価・感想をお願いします。

不安寝の生きる糧になります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ