童話のifは異世界で 1
白雪姫は己が呪いに殺され、
呪いはすべての咎を負う。
だが、
血塗れた雪が純白を取り戻すことはなく、
春の邂逅とともに散ることになるだろう。
────『ルージュの脚本』最終章より
◇
瞭雅は図書室にいた。いたはずだった。
「……え、は?」
並べられた本、秒針を刻む音、紙の匂い。さっきまで目の前にあった光景は見る影もない。目に映る景色、耳に響く音、鼻を撫でる香り。感じとれる全ての情報が数秒前とは違い、その大きすぎるギャップに思考が圧迫される。
「森?」
ワンテンポ遅れて、堰き止められていた情報が一気に流れ込んできた。耳に響くのは、落ち葉を吹き荒らす木枯らしの音。鼻を撫でるのは、森特有の青い香り。
そして目に映るのは──狩猟銃を構えた赤い頭巾の少女と、それに狙われているフードの二人組。
「は?」
始動しつつあった思考が、再びシャットダウンしようとする。だが、弾丸を込めるような音が聞こえて来て、停止間際だった頭はすぐに危機感を取り戻した。
──どうする?
止めるか。いや、銃持ちに生身の人間が立ち向かっても返り討ちに遭うだけだ。じゃあ、見なかった振りをするか。幸い、瞭雅の存在はまだバレていない。でも、どこに? こんな見知らぬ森を目的もなく彷徨うつもりか。
結論が出なかった結果、瞭雅は動けずにその場で立ち尽くすことになったが────少女の双眸がそれを咎めた。
見られた。焦茶色の大きな瞳が、動かない瞭雅を責めるように一瞥したのが、確かに見えてしまった。
ダメだ。動くな。下手したら死ぬぞ。
理性はそう訴えかけているのに、『見られた』という事実だけで今までの葛藤をすべておじゃんにし、瞭雅の身体は見栄を張り始める。
「待て!」
先程までの迷いは嘘のように、瞭雅は力強く土を踏みしめた。間に合わないのは明らかでも、愚直に、必死に、殺人を止めるべく走る。少女にわずかにでも迷いが、温情があれば、手は届いたかもしれない。しかし彼女が持ち合わせていたのは、無慈悲な殺意のみであった。
──バンッ
タイムオーバーを知らせる轟音が耳をつんざき、少女を止めようとしていた手は虚しく宙を掴んだ。目的の喪失と同時に瞭雅の身体が止まってくれるわけもなく、顔面から倒れ込む。二人組のうち小柄の方が、崩れ落ちていくのを横目に見ながら。
こういう時、間に合わなかったと絶望するのが、きっと普通なんだろう。案の定湧き上がってきた、普通じゃないそれには気づかないふりをして、瞭雅はゆっくりと面をあげた。
「大丈夫ですか?」
少女から差し伸べられたのは、気遣いの言葉と小さな手のひら。最悪の場合は銃口を突きつけられていると思っていたのに、想定とのあまりの乖離に瞭雅は瞠目した。
「あっ……ああ。大丈夫、だ」
静止の言葉を聞き入れずに一人の命を奪った、先程までの冷酷さ。そんなものは一切感じさせずに友好的に接してくる彼女は、むしろ不気味に思える。
「……殺さねえの?」
無意識に声にして初めて失言だと気付いた。これではまるで殺してほしいみたいじゃないか。
「殺されたいんですか?」
「待った待ってください、生きてぇめっちゃ生きたいです!」
「そうですか」
瞭雅の必死の弁解に理解を示してくれたのか、それとも瞭雅に関心がないのか、瞭雅に危害を加えるつもりはないようだ。こちらは見向きもせず、二人組がいたところを凝視している。
今なら穏便に離れるチャンスなのではないか。そう思いついた瞭雅は、忍び足ではじめの一歩を踏み出そうとしたが、外部の力によって失敗に終わることになる。
「説明は後でします。とりあえず、あっちに隠れて」
「え? って、うわ!」
突然少女に身体を思いっきり押されて、瞭雅は茂みの向こう側に転がった。少女に突き飛ばした意図を聞こうとしたが、寸でのところでやめた。少女がいつの間にか姿を消していたのと、人が近づいてくるのが見えたからだ。バレるのは不味いと即座に判断した瞭雅は、音を立てないよう慎重に茂みのさらに奥へと身を隠した。
近づいてきた人の正体はふたり組の大柄のほうだった。大柄といってももう一人と比較しての話で、特徴として挙げられるほどのものではない。背中に狩猟銃を背負い、血に濡れた灰色のローブを纏っている。フードもすっぽりと被っているせいで顔がよく見えない。そのため正確な性別すら判別がつかないが、高めの背から考えておそらく男だろう。
その男は、瞭雅の隠れている茂みに近づいてきていた。ゆっくりと、だが確実に瞭雅の元へと真っ直ぐに。嫌な予感がした。
──これ、バレてる? そんで殺されるやつじゃね?
理解した途端、心臓が爆音で警鐘を鳴らし始めた。あまりの鼓動の激しさに、喉から飛び出してこないか心配になるほどに。ドクドクドクドク──リズムを刻む度に男もまた一歩一歩近づいてくる。
堪えた息が苦しかった。冷や汗をかいて気持ちが悪かった。心臓が煩かった。死ぬのが怖かった。殺されるのが怖かった。目の前の人間が怖かった。
それと同時に──わずかな飢餓感を覚えた。
なぜかはわからない。だが、気のせいではなかった。男が一歩近づく度に空腹は確かに増幅し、恐怖を麻痺させていく。
心臓の鼓動は相変わらず騒がしかったが、その音色はもはや高揚で染まっていた。
あと数メートル。瞭雅は何かに急かされるように腕を────
「動くな‼︎」
突如響き渡った少女の声に、瞭雅は夢心地の酩酊感から引きづり出された。それと同時に男はうつ伏せに倒れ込み、その頭が瞭雅の眼前に晒される。背は赤頭巾の少女の足で押さえつけられており、頭には狩猟銃が突きつけられていた。
「私は王妃殿下の任務で貴様を監視していた! 情に厚い貴様が、王女殺害の命をきちんと果たすかどうかをな。案の定、貴様は王女を逃した。よって私は代わって王女を排除し、これから貴様を処罰するところだ。分かるな?」
瞭雅に対してのあの恭しいものとは違い、非常に高圧的な態度でそう言い聞かせる。それを聞き男は小さく頷いた。
「だが、できるのならば奪う命は最小限に抑えたい。だから貴様にチャンスをやろう。なに、難しいことじゃあない。貴様はただ黙って、自分が王女を殺したことにすれば良い。どうだ? 簡単だろう?」
「……分かった。言う通りにしよう」
「そうか。物分かりがよくて助かるよ。では早速王妃殿下に報告を。死体の処理は私の方でしておこう」
そう言って少女は背から足をどかし、銃口は男に突きつけたままその場を立ち去っていく。瞭雅はその後の行動に迷ったが、少女がこちらを見ながら人差し指を唇に押しつけたので、大人しく従い待つことにした。
日本に皇后陛下はいても王妃はいない。任務で殺人なんてものもあるわけないし、少女だけでなくあの男も当たり前のように狩猟銃を保持していた。耳を疑う話だが、つまりここは日本ではないどこかなのだ。殺人鬼の少女と関わるべきかどうかは判断に迷うところだが、やはり何か知っているであろうから話は聞いておきたい。理解不能な出来事が連続で積み上がっていったせいで、頭がもうパンクしそうだ。
「お待たせしました」
適当な木にもたれていた瞭雅の前に、少女はすぐに戻ってきた。待っている間にもう少し状況の整理でもしようかと思ったが、その時間すらないほどにあっという間だった。というより、死体の処理にかかる時間を考慮すると早すぎる。
「早すぎないか? 死体の処理とか……」
「処理したら、私が彼女を撃った意味がなくなってしまいますからね」
まるで撃った意味が殺害以外にあるかのようなニュアンスだ。
「意味って……人を殺す以外にあんのかよ?」
「殺すとは人聞きの悪い。私は人なんて殺してませんよ」
「いやいや、それはさすがに無理があんだろ。あれは死んでるって」
再度死体を確認したが、ピクリとも動かない。あれで生きてるって言われても信じろというのは無理な話だ。そもそも、さっき自分自身で王女の死体だと言っていたじゃないか。
「納得できないようですね」
「そりゃまあ、この目でお前が撃つの見ちゃったし」
「……貴方は物語の登場人物を、私たちと同じ『人』だと判断するんですか? 登場人物が死んだら、そのような展開にした作者を人殺しと呼ぶんですか?」
意図の読めない急な問いに言葉が詰まる。だが、長くは続かなかった。当然だ。答えは分かりきっているのだから。
「んなわけねぇじゃん。フィクションだぞ」
その答えを待っていたと言わんばかりに、少女はニヤリと口角を上げた。
「ええ、そうです。フィクションです。現実には存在しないものです。そしてこの『世界』、それと同じですよ」
「はあ?」
「ここは、ある人間の真っ赤な嘘から作られた、虚構の『世界』です」
「いや、意味わかんねぇよ」
「今にわかりますよ。ほら」
少女は立ち上がって、ある方向を指差した。指し示した先は、先程見たばかりの死体がある場所。そんなところを指差す少女に疑問を抱きながらも、瞭雅はその方向に目を向け──信じられない光景を目の当たりにした。
「……は?」
動いていたのだ。落ち葉を鮮血で染め、まるで赤いカーペットで眠るように倒れ伏していた死体が、ゆっくりと身体を起こして立ち上がっていた。
生きていた可能性がよぎったが、遠目でも出血量が多すぎることがわかる。そこそこの距離があるのに、ここからでも鉄の匂いがわずかにするほどだ。たとえ息はあったとしても、立ち上がれるほどの気力があるなんてありえないはず。なら、なんで動いているのか。あれじゃまるで……
「やっぱり……白雪姫は不死身だったんだ」
少女がぽつりと呟いた。そう、あれではまるで『不死身』なのだ。
そして『白雪姫』。その一言でストンと腑に落ちた。女王に命を狙われている王女。命令に反き、王女を森に逃した猟師。そしてここにくる時、落として床に広がってしまった本があったじゃないか。
その本は童話『白雪姫』。ここは──白雪姫の世界だ。
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