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王女の思惑 女性護衛騎士の憂鬱  作者: 樫本 紗樹


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白紙

 児童養護施設から戻った所で業務終了となったスカーレットは、近衛兵長に報告をした後で自室へ戻った。そして軍服からワンピースへと着替え、紅茶の準備を始める。中止となっていたメイネス語講座が今日から再開される予定だからだ。

 スカーレットの気分はとても良かった。子供相手なので簡単な初歩を教えただけである。それでも自分の好きな事を誰かに教えるのは楽しかった。見学だけでいいと声を掛けた少女も途中から参加をして、笑顔を向けてくれたのも嬉しかった。アリスの護衛として常に付き添っていたので子供達の顔は覚えていたが、一気に距離が縮まった気がしている。帰り際に次も教えて欲しいと言われて、何の迷いもなく頷いていた。

 紅茶の準備が整うと同時にグレンが部屋を訪れた。手紙のやり取りはしていても、面と向かって会話をするのは久しぶりである。スカーレットは無意識に微笑んでいた。以前ならたまにしか会わなくても何とも思っていなかったのに、彼女は何故あれほど無関心でいられたのか今ではわからない。

「元気そうで良かった。足は大丈夫?」

「えぇ。普段の生活に支障はないわ。グレンの仕事は落ち着いた?」

「あぁ。こちらが対応出来る範囲はやったから、後は周囲の反応次第かな」

 スカーレットはグレンに座るよう促すと、ティーカップに紅茶を淹れてテーブルに置いた。彼は礼を言ってからティーカップを持ち上げ、香りを堪能してから口に運ぶ。

「美味しい」

「グレン。先に話を聞いてほしいのだけれど、いい?」

 嬉しそうに表情を綻ばせたグレンの言葉にスカーレットは笑顔で頷いた後、真剣な表情を向けた。彼も彼女の雰囲気を察して姿勢を正す。

「今日、児童養護施設で子供達に剣技を教えたの。素振り程度の簡単なものなのだけれど、とても楽しくて。これからも教えていきたいと思ったの」

 スカーレットはこれまで誰かに誘われたり、勧められたりして、それを受け入れて生きてきた。自分からやりたいと言ったのは剣を振るう事くらいで、近衛兵の話もエドワードから持ち掛けられたものだ。しかし今日子供達に教えた事によって、この道を歩きたいと強く思った。勿論、児童養護施設の公務の手伝いも、パウリナと手紙のやり取りをする事も投げ出すつもりはない。しかし、自分が一番力を入れたい事はこれだと思ったのだ。

「レティは剣を振っている時が輝いているから、とてもいいと思う。庭で振るだけではもったいないと思っていたから」

 グレンは本心でスカーレットの希望を肯定した。彼は本当に近衛兵を辞めると聞いて複雑な心境だったのだ。彼女に危険な事はさせたくはないが、好きな事を諦めさせたくもなかった。かといってレヴィ王国の軍人は男性のみで、女性ではなれない。女性が帯剣できる唯一の職業が近衛兵なのである。児童に剣を教えるのを良く思わない人もいるだろうが、彼は彼女の夢を全面的に応援したいと思った。

「ありがとう。それで、婚約を白紙に戻して欲しいのだけれど」

「嫌だ」

 先程までスカーレットを応援しようとしていたグレンだったが、考えるよりも先に否定の言葉を発していた。あまりに早い返しに彼女も驚いている。しかし彼は言葉を発するのを我慢出来なかった。

「結婚を諦めなくていいと言ったのは嘘だったのか? 時間が欲しいというのなら五年でも十年でも待つから、それだけは受け入れられない」

 グレンは婚約の話が先だったのか、自分の気持ちが先だったのかわからないくらい、昔からスカーレットに好意を抱いている。最近やっと彼女がこちらを見てくれるようになって、結婚が現実味を帯びてきていた。以前の兄以上に思われていない状況だったならばもう少し冷静に言葉を選べたかもしれない。しかし彼はもう彼女と結婚する前提でいたので、婚約を白紙など到底受け入れられなかった。

「仕事が忙しくて会いに来られなかったのは悪かった。今後もこうなるようなら辞める事も視野に入れるから――」

「待って。側近を辞めて欲しいなんて一切思っていないから」

 頭から否定されて驚いていたスカーレットだったが、グレンの話す内容が望まぬ方向へと流れていると気付き、慌てて制止した。彼が会いに来られなくなったのは王太子の側近ならば当然で、そのような事を責めるつもりは一切ない。むしろ早く解決したと思っている。

「それなら何故」

「近衛兵は陛下の私兵である以上、誰も文句は言えない。けれど女性が剣を振っていたら皆が妙な目で見るわ。私は好きな事をするから構わないけれど、それでグレンに迷惑をかけるのは違うでしょう?」

 スカーレットは自分の微妙な立場にずっと悩んできた。そしてやっと自分がやりたい道が見えて歩こうと決めたが、それは公爵家に嫁ぐにはあまりにも相応しくない。いくらハリスン公爵家の人間が自由とはいえ、グレンはリチャードの側近として真面目に働いているのだ。彼の評価を下げるような事はしたくなかった。

 スカーレットの話を聞いて、グレンは大きく息を吐いた。そして少し冷静さを取り戻した彼は、呆れたような視線を彼女に向ける。

「生涯唯一人と決めた女性を守れないような男だと思わないで欲しい。レティのやりたい事は心から応援するし、周囲に文句を言わせないくらい仕事だってする」

 貴族の一般常識から外れた人間をグレンは何人か知っている。しかしそれでも彼らが第一線で活躍しているのは、周囲の意見をねじ伏せる程本人の能力が高いからだ。彼はスカーレットが嫌がったらハリスン家の当主にならないでおこうと思っていた手前、控えめに仕事をしていた。スカーレットを手放さなくていい為の努力なら惜しむ気はない。

「レティが結婚より死を選ぶほど私との結婚が嫌ではない限り、絶対に婚約を白紙にはしない。私にとってレティとの結婚は何よりも重要だから」

 グレンの真剣な眼差しをスカーレットは正面から受け止める。彼にとって絶対に譲れないものが自分との結婚なのだろうと、彼女は痛い程感じていた。

「私はグレンと結婚をしても足を引っ張るばかりだと思う」

「それはない。そもそも伯父も母もレティを大歓迎するから、煩い者の口くらい簡単に塞ぐよ」

「それは本当に実行しそうで怖いのだけれど」

 スカーレットは眉を顰めた。ウォーレンもエミリーもやりかねない。

「勿論、二人が出てくる前に私が動くけれど」

 グレンは低い声でそう告げた。初めて聞く声にスカーレットは思わず息をのむ。普段誰にでも優しく対応する彼の、意外な一面を見たような気がした。戸惑っている彼女を見て、彼は今までが嘘だったように微笑む。

「スカーレット、結婚しよう」

「え?」

「ハリスン家の一員になれば周囲も黙る。婚約者よりも妻の方が私も守りやすい」

 スカーレットは突然の求婚に戸惑いを隠せなかった。そもそも彼女は婚約関係を解消して、剣技が好きな一人の女性として生きていこうと思っていたのだ。

「私はグレンに守られるほど弱くないわ」

「剣の腕はレティの方が上だけれど、精神的な話なら私の方が強いよ。異性として認識されていないとわかっていながら、ずっとレティを好きだった私の気持ちを見くびらないで欲しい」

「見くびってなんかいないわ」

「どうかな。私が押し倒すとは思っていないだろうけれど、やってみようか」

「グレンはそのような事をしないでしょう?」

「結婚してくれないというのなら、既成事実をと考えてもおかしくはないと思うけれど」

 スカーレットはどう答えていいのかわからなかった。目の前にいるグレンはいつもとは別人のようで、それでも決して逃げられない雰囲気ではない。彼女が必死に言葉を探していると、彼は泣きそうな表情で小さく首を振ると顔を隠すように俯いた。

「ごめん、困らせて。だけどその理由では婚約を白紙にはしたくない」

 目の前で小さく俯いてしまったグレンを、スカーレットは何故か無性に愛おしく思った。見くびっていたわけではないが、彼の愛情の大きさを見誤っていたかもしれない。いくら好きな事をしようとしているとはいえ、不安がないと言えば嘘になる。彼女も彼が好きな気持ちはあるのだ。ここは遠慮をする場面ではなかったと、彼女はようやく気付いた。

「グレン、やっぱり白紙に戻そう」

 スカーレットの言葉にグレンは勢いよく顔を上げる。泣きたいのか怒りたいのかわからない表情の彼に、彼女は微笑みかける。

「名前を呼んでくれて嬉しかった。婚約は白紙にして、グレンの求婚を受けるわ」

 グレンがスカーレットと呼びかけたのは無意識なのか彼女にはわからない。それでも彼女を本名で呼ぶ人は今まで誰もいなかった。家族も幼なじみ達も皆がレティと愛称で呼ぶ。だからこそ名前で呼びかけられたのが嬉しかったのだ。

 グレンはスカーレットの言葉を理解するのにしばらく時間を要した。そしてやっと理解した時、満面の笑みを浮かべる。

「本当に結婚してくれるの?」

「えぇ。剣を振るような女性で良ければ」

「レティ以外は嫌だ。ありがとう、スカーレット」

 グレンは椅子から立ち上がるとスカーレットに駆け寄り、彼女を立ち上がらせて思いきり抱き締める。彼女ははにかみながら、彼の背に腕を回した。

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