苦手克服開始
『本当に彼女がリックの伴侶として一生支えてくれそうなの? 私はグレースこそが適任だと思うのだけれど』
『母上のグレース推しはわからなくもないけど、グレースに王妃殿下という肩書は重すぎる。勿論、パウリナ殿下が担えるかは未知数だけど』
『グレースはとってもいい子よ。アレックスには勿体ないから他を当たってね』
『俺とグレースの間に恋愛感情はないけれど、面白くない発言だな』
まずはメイネス語に触れてみようとなり、ライラとアレクサンダーの会話をスカーレットとグレンが聞く、という所までは何の問題もなかった。しかし話している内容がおかしい。スカーレットは名前以外よくわからないが、グレンは公国語を理解しているだけに何となく話の内容を掴めてしまったのだ。
「ライラ様。挨拶など簡単な会話からお願い出来ませんか?」
これ以上この親子の話を聞いても仕方がないだろうとグレンは声を上げた。そもそも聞いているだけで理解出来るのなら、スカーレットは現状ある程度理解していなければいけない。だが残念ながら多少わかる程度だ。しかしライラとアレクサンダーは元々素質があり何ヶ国語も自在に操ってしまうので、スカーレットの師として正しいのかグレンは疑問を持ち始めていた。そもそもレティといい感じになると思っていたのに、全く期待できない空気にグレンは心底落胆している。
「挨拶は発音が少し違うだけで公国語とほぼ一緒よ」
「その説明で私はわかりますけれど、レティには基礎からお願いします」
「レティは私達の会話はわかったわよね?」
スカーレットがいくら語学を苦手としているとはいえ、常日頃からライラとエミリーとの何ヶ国語も混じる会話の中で育っているのだ。話せなくとも簡単な内容なら聞き取れるだろうと思っている。ライラとエミリーの会話で使用する言葉にはある程度決まりがあり、聞かれたくない場合にしか使わない言語があるのだが、メイネス語は普段使用していた。ちなみにライラは使用するが、エミリーは使用しない事をライラは失念している。
さも当然のようにライラに尋ねられ、スカーレットは困惑の表情を浮かべた。
「個人名以外わからなかった。リックとパウリナ殿下の話かと思ったら兄上の名前が出てきて、想像も出来ないわ」
スカーレットも想像力を働かせながら聞いていた。ライラがリチャードの相手にグレースを推薦していた話だと最初は思ったのだが、そこにアレクサンダーの名前が出てきて、しかも彼の表情がやや不機嫌そうだったのでどこに話が飛んだのか見当もつかなかったのだ。
「レティは聞き取れている言語もあるわよね? あれは何語?」
「何語と言われても、何語で話しているのかわからないのに答えられないわ」
スカーレットの言葉にライラは納得する。そもそもライラが扱う言語は十を越えるが、エミリーとの間で使うのは八言語だ。
「今から同じ会話を何度もするわ。どれが聞き取れたか教えて頂戴」
そう言うとライラはアレクサンダーに同じ内容を違う言語で話しかけ、それに対し彼は言われた言語で応える。せめて自分が苛立たない会話に変更しないかと思いながら、彼は不満そうに役目を果たす。スカーレットはその会話を聞きながら、兄は本当に母と同じ言語を操れるのだと感心していた。
「どう? わかった?」
「兄上は結婚対象外だとグレースが言っていたわよ」
「どうして俺はグレースに恋愛感情を抱いていないのに、振られた気分にならないといけないんだ」
アレクサンダーはがっくりと肩を落とす。その横でライラはやはり聞き取れる言語があるのだと思い、何番目の会話が聞き取れたのかとスカーレットに質問をする。
「最後でやっとわかったわ」
スカーレットの答えにライラは視線を落とした。最後に使ったのは帝国語である。レヴィ語に一番近い言語であり、メイネス語とはあまり接点がない。つまりレヴィ語からメイネス語を教える事になるのだが、こちらも文法はほぼ同じでも単語も発音も異なるので覚えるのは大変である。
「エミリーとの会話に公国語も良く使うのだけれど、公国語はわからなかった?」
「顔合わせの茶会に参加したけれど、全然聞き取れなかったわ」
ヒルデガルトとの茶会の時、スカーレットは何もわからなかった。途中パウリナが参加し、二人は他言語で会話が成り立っているような雰囲気は伝わったが、実際成り立っていたのかまではわからない。
「ライラ様、この役目を私に任せて頂けませんか」
部屋の脇に控えてずっと黙っていたエミリーが口を開く。彼女はグレンの母ではなく、ライラの侍女という立場でこの場に参加していた。
「エミリーはメイネス語に自信がないのでしょう?」
「えぇ。それでもボジェナ様とライラ様の会話は全て聞き取れます」
ボジェナはレヴィ語を必死に覚えてから留学した為、流暢なレヴィ語を話す。しかしライラのメイネス語を完璧にしたいという我儘の為に、二人で会う時は基本メイネス語で会話をしていた。そしてそれをエミリーは侍女として聞いている。彼女はメイネス語自体を学んではいないが、公国語の応用で聞き取れるのだ。
「発音の不安がありますので、アレックス様には手伝って頂けると助かります」
「私は不要なの?」
「ライラ様はレティ様の心を挫かないのならいて下さっても結構です」
「大切な娘の心を挫く母親がどこにいるのよ」
「ライラ様は天性の素質をお持ちです。その気がなくても失言をする可能性があります」
エミリーに強い視線を向けられ、ライラは言葉を飲み込む。二人は同じ環境で言語を学んだ仲だが、習得は圧倒的にライラが早かった。公爵家の長女と乳母の娘であるからこそ、エミリーはライラに何を言われても受け入れられた。しかし母と娘では違う。
「レティ様が苦手とわかっているのに、やりたいと判断をされた事柄です。達成させてやりたいと思うのが親心ではありませんか」
「親なのは私なのだけれど」
「私もレティ様がこの世に生を受けてから今まで成長を見守ってきました」
二人の言い争いを無視して、アレクサンダーはレティとグレンに近付いた。
「どうして母上を選んだ。母上は確かに言語学者くらい詳しいが、人に教えるのは下手だ」
「兄上が話せるではありませんか」
「俺が話せるのは母上に近い才能を持っていたからで、直接教わったアスラン語は発音が不安だ」
アレクサンダーの言葉にスカーレットだけでなくグレンも首を傾げる。確かにアスラン語は海を越えた別大陸の言語であり、レヴィ王国ではまず聞かない。そしてエミリーはアスラン語を学んでいないので、二人の会話には出てこないのだ。アレクサンダーも自分の耳を信じてライラから発音を学んだものの、使う場面が一切ないせいで自信がない。エミリーが使える言語は、ライラがいない場所でアレクサンダーが尋ねれば丁寧に教えてくれたのだ。
「だがサリヴァン夫人に聞くわけにもいかないだろう?」
グレンもメイネス王国出身者に教えて貰うのが一番なのはわかっている。しかし、メイネス語を教えてくれるメイネス人の知り合いなどいない。
「ボジェナ叔母上は人がいいから教えてくれるが、時間を拘束するとフリッツ叔父上が怖い。俺は先日視線で心臓をやられるかと思った」
リチャードがパウリナと交流を深める為に、自分もメイネス語を覚えたいと言い出した。その願いを叶える為に、アレクサンダーはメイネス語についてボジェナに確認しに行ったのだ。
「サリヴァン卿の無表情以外を見たのか?」
「とても静かに怒っていた。リックの側に居ると忘れてしまうが、レヴィ王家は怖い」
アレクサンダーは目を閉じて小刻みに首を横に振った。自分も王弟の息子だろうとグレンは思ったが言葉を飲み込む。血縁に関してスカーレットの前では言ってはいけない気がしたのだ。
「兄上が教えてくれるなら、それでも構わないのだけれど」
「あぁ。私とエミリーで十分だ。母上は辞書として使うならとても役に立つと思う」
「アレックス! 自分の母親を何だと思っているの」
エミリーとのやり取りに一段落したのか、アレクサンダーの言葉にライラが背後から突っ込む。アレクサンダーはゆっくりと振り返り、ライラを見据える。
「普通は普段使える文章から教えるのに、妙な会話をする母上がおかしい」
「妙って何よ。リックの婚約者の話でしょう?」
「その会話はパウリナ殿下としないから役に立たない」
アレクサンダーに断言されてライラは口を尖らせる。彼は身体の向きをスカーレットに戻す。
「まずはそのドレスは素敵ですね、辺りから始めるべきだよな」
アレクサンダーの提案にスカーレットは頷いていいのかわからず、反応出来なかった。そもそもレヴィ語でその言葉を使った記憶がないのだ。彼女の困惑をグレンが察する。
「挨拶や自己紹介からでいいと思うけど」
「その辺りならパウリナ殿下は覚えてくると思うが」
「アレックス様、挨拶はとても大切ですから飛ばしてはいけません」
エミリーに指摘され、アレクサンダーは素直に受け入れた。ライラは自分の意見を聞かずエミリーの意見を聞く息子の態度に不満を隠さない。妙な空気の中でメイネス語講座は始まった。グレンはパウリナが嫁ぐまでにスカーレットが習得できるのか不安で仕方がない。しかし真剣な表情でメイネス語の挨拶を発しているスカーレットを見て、彼女が成し遂げられるように支えようと心に誓った。




