婚約者候補到着
王宮舞踏会まであと三日と迫った日。リチャードの婚約者候補として、メイネス王国の王女パウリナがレヴィ王宮に午後到着すると連絡があった。いつもは仕事で忙しくしているボジェナだが、パウリナ到着前にアリスの部屋を訪れていた。
「お忙しい所、弟の為に時間を割いて頂きありがとうございます。暫く通訳の仕事をお願いします」
「いつも王宮舞踏会の前後は時間を空けているから大丈夫ですよ」
アリスとボジェナはそれ程仲が良いわけではない。それでもお互い穏やかな表情を浮かべている。
「ちなみにパウリナ殿下はレヴィ語を話せますか?」
「残念ながら話せません。ただ、通訳を帯同するそうなので、私は主にリチャード殿下の通訳になります」
通訳がいると聞いてアリスは胸を撫で下ろした。パウリナ王女とその一行は暫く王宮内に滞在する事になるが、その間中ボジェナがつきっきりでは申し訳ないと思っていたのだ。先方に通訳がいるのなら、リチャードと会う時間だけの拘束になる。
「パウリナ殿下滞在中に何か気を付ける事があれば教えて下さい。失礼ながらメイネス王国の文化について詳しくないものですから」
「お気遣いは無用です。レヴィ王国より優れた所はメイネスにはありませんから、レヴィ流で問題ありません」
ボジェナは笑顔でそう言った。謙遜ではなく本当にそう思っている。
「パウリナが着きましたら一緒に挨拶に行きましょう。私も初めて会う姪ですけれども」
「一緒に行って頂けるのなら心強いです」
アリスは社交を不得手とは思っていない。しかしそれは彼女がレヴィ王国の王女であり、自分より身分が上の者と会っていないからでもある。今回も国の格と年齢が違うので、身分が同じとはいえパウリナの方が下である。だが、リチャードと会う前に自分が余計な印象を与えてはいけないと、彼女は少し緊張をしていた。
「緊張しなくても大丈夫ですよ。婚約者候補ではありますけれど、兄には期待しないように連絡してありますから」
「そうなのですか?」
アリスは思わず聞き返した。ボジェナは政略結婚ではなく恋愛結婚である。元々家族との縁も薄く、母国とは一切繋がっていないとアリスは思っていたのだ。故にボジェナの兄である国王ダリウスに連絡をしているとは想定していなかった。
「兄ダリウスとは親しくありません。私が母国で親しくしていた者から間接的に伝えてもらいました」
「返事はありましたか?」
「パウリナは国内一可愛い娘だから大丈夫だそうです。馬鹿馬鹿しくて、メイネス語は忘れてしまったので何を言っているのか理解出来ませんと返しておきました」
ボジェナが笑顔でそう言うのでアリスもつられて微笑む。その穏やかな空気の中、扉を叩く音がし、パウリナ王女がレヴィ王宮に到着したと連絡が入った。応対をしたスカーレットがアリスに視線を送ると、アリスは頷いて応える。
「それでは行きましょう」
「えぇ」
スカーレットが扉を開け、アリスとボジェナは部屋を出る。スカーレットも扉を閉めると二人の後をついていく。
ボジェナがレヴィ王国に留学した時はエドワードとナタリーが王宮で出迎えた。しかし今回はアリスがその役目。優秀な留学生と婚約者候補では扱いが違うと暗に示しているが、出迎える応接間は同じである。
スカーレットが応接間の扉を叩いてからゆっくりと開ける。部屋の中には女性が二人、立って待っていた。
「遠い所ようこそおいで下さいました。レヴィ王国第一王女アリスです」
アリスがにこやかにそう告げると、ボジェナがメイネス語に訳す。それを受けて女性二人は一礼をすると、ドレスを纏った女性が片言のレヴィ語で挨拶をする。
「この度は王宮舞踏会へお招き頂きありがとうございます。メイネス国王ダリウスが娘パウリナと申します」
「長旅でお疲れでしょう。どうぞお座り下さい」
四人はソファーに腰掛けた。スカーレットは扉の近くで待機をする。元々期待はしていなかったが、やはりメイネス語は聞き取れなかった。彼女はメイネスから来た二人を観察する。パウリナは臙脂色のドレスを着ており、その横に腰掛けている通訳は紺色の服を着ている。二人とも髪は栗色だ。血縁とはいえパウリナとボジェナとは似ていない。しかし先程話に出たように非常に可愛らしい女性だ。暗記したレヴィ語の挨拶を言えてほっとしているように見える。
「突然の招待でしたけれども、準備は大丈夫でしたか?」
『はい。叔母がこちらへ嫁いでからレヴィ王国には憧れがありました。まだレヴィ語は勉強中ですが、いつ招待状が届いてもいいように準備はしていました』
パウリナはまだ十五歳だ。若さを感じる発言をアリスは笑顔で受け止める。
「踊りはいかがですか?」
『練習はしていましたけれど、メイネス王国には舞踏会がなく、披露出来るものか不安があります。是非舞踏会の前に叔母上に見て頂きたいと思っています』
「それは私が責任を持って確認しましょう」
『ありがとうございます』
通訳が入るので会話はどうしても間が空いてしまうが、パウリナは楽しそうにしている。その様子を見てアリスもにこやかに対応していた。
「明日はリチャードを交えて茶会を催す予定です。苦手な物があれば教えて下さい」
『大丈夫です。レヴィの紅茶は美味しいと聞いていますのでとても楽しみです』
パウリナの笑顔は、リチャードと会うよりもレヴィ王国の茶会が楽しみだと言っているようだった。しかしアリスはその方がいいだろうと思い笑顔で受け流す。下手に婚約者だと詰め寄られるよりは、隣国に遊びに来たくらいの感覚の方がリチャードも対応しやすい気がしたのだ。
「えぇ。私が一番気に入っているものを振る舞わせて貰います」
二人は暫くにこやかに会話をし、疲れているだろうからとアリスが気を遣って挨拶は終了となった。ボジェナはパウリナの踊りの確認をするというので、アリスとスカーレットだけがアリスの部屋へと戻った。
アリスの部屋ではアビゲイルが丁度ハーブティーを淹れている所だった。
「いかがでしたか?」
「若かったわ」
アリスはそう言ってソファーに腰掛ける。アビゲイルはアリスの前にティーカップを置いた。
「王女というよりは少女、という事でしょうか」
「えぇ。政略結婚をしに来た感じは一切しなかったわ」
メイネス王国は小国とはいえ、ダリウスが国王になってからは堅実だ。大国と繋がった方が安心ではあるだろうが、暫く傾くとは思えない。
「問題は明日来るローレンツ公国の方でしょうね」
「公国の内情は本当に良くないみたい」
「通訳もいないと聞いたわ」
パウリナには通訳が帯同していたが、ローレンツ公国からは通訳は帯同しないと連絡が既に入っている。これは公女がレヴィ語を話せるからではない。そちらが公国語を話せる者を用意しろという意味である。いくら前王妃が公国出身者とはいえ、レヴィ王国内で公国語を話せる者など、商人のごく一部だけである。本当に普通ではない国だったのかと、アリスはそれを聞いた時からやる気をなくしていた。
「メイネス王国の方はサリヴァン夫人が手を回したのだと思います」
「それはあるでしょうね。会った事はないと言っていたけれど、一緒に部屋に行くくらいには気を遣っているわけだから」
「父に公国語を通訳可能な軍人の派遣を要請する?」
「軍人は遠慮したいわ」
レヴィ王国軍は女人禁制である。他国の公女の近くに男性の軍人を置くのはアリスには気が引けた。そもそもグレンを通訳にするのも納得していないのだ。
「ねぇ、アレックスは話せないの?」
アリスはスカーレットに尋ねた。グレンとアレクサンダーは同じ年であり、グレンの母がアレクサンダーの乳母である関係から非常に仲が良い。グレンが公国語を学んでいる横でアレクサンダーも学んでいたのではないかとアリスは思っていたのだ。
しかしスカーレットは浮かない表情だ。
「兄が何ヶ国語を理解しているのか、私は知らないの」
ライラがアレクサンダーに色々な言葉で話しかけていたのは知っている。しかし一体どこまで習得しているのかスカーレットにはわからないのだ。言葉は知っていると公言しない方がいいとアレクサンダー自身が言っており、彼が公言しているのはレヴィ語とアスラン語だけである。
「それなら直接アレックスに聞くわ。もし話せるようならノルに調整をお願いして貰える?」
「畏まりました。その場合は父と交渉してみます」
アリスの言葉にアビゲイルが答える。スカーレットの表情は暗い。
「ごめんなさい。私が習得しておけばよかったのに」
スカーレットは元々他言語を覚えようとはしなかった。それは父がそうだからであり、彼女自身他国の者と関わらないと思っていたのだ。しかしいつか役に立つかもしれないからと覚えていたアレクサンダーの方が正しかったのだと痛感していた。
「気にしないで。苦手なものは仕方がないわ」
アリスはスカーレットに笑顔を向けるとハーブティーを口に運ぶ。その表情はどこか楽しそうである。アリスの機嫌が何故良くなったのかスカーレットにはわからず首を傾げた。