98. 誰でもいい
見慣れたような、少し懐かしいような、薄暗い廊下。
自分がその場所にいること、目の前に彼女がいること、その事実が喉元を切なく締め付ける。
夢の中だからか、辺りは霧がかかったようにぼんやりとしていた。ふと、目先の空気が揺らめく。
姿は見えなくても、手の届く距離にいる彼女の正体は分かりきっていた。
『ごめん。悪いけど、女は嫌いなんだよね』
視界とは裏腹にハッキリと聞こえる声。次第にその小さなシルエットが形取られていく。
拒絶を隠そうともしない瞳が真っ直ぐに私を射抜く。
……蓮があんなことを言ったのは、本当に女の人が“嫌い”だったからだろうか。
初めて蓮に声をかけた日から、ずっと疑問に思っていた。小さく震える手。どこか怯えたような瞳。
そしてあの時、取り乱して叫ぶ蓮を見て確信した。
蓮は、女の人が“嫌い”なんじゃなくて、“怖い”んだ。
もう一度傷つけられるのが怖くて、それなのに繰り返そうとする自分自身も怖くて、そんな恐怖から逃げていたんじゃないかと思う。
そんな姿を見て、私は益々一方的な親近感を募らせてしまったんだ。
* * *
「阜ー! 今日遊べるー?」
「うん! ちょーひま!」
当時小学5年生だった私は、仲の良い友達が4人いた。
学校ではいつも一緒で、放課後はお互いの家や公園などで毎日のように遊んだ。面白くて賑やかなみんなと過ごす毎日が、私は好きだった。
当然のように笑い合う毎日が、少し途切れた夏休み。
何回か遊びには行ったけど、ほとんど宿題ばかりの生活が終わり、日常に戻り始めた頃。
私は次第に違和感を覚えるようになっていた。
知らない話題。誘われていない遊びの約束。隠すように持っているところを見てしまった、4人でお揃いのキーホルダー。
それに気が付いた時はショックだったけど、誘われたら遊びに行ったし、教室では何事もないように笑い合った。そうしていないと、何かが壊れてしまう気がして怖かった。
そんなある日、委員会の集まりが終わって教室に戻ると、薄暗い教室にいつもの4人のうちの1人が立っていた。思わず身構えてしまった私に気付いているのかいないのか、彼女はつり気味の目を細めて笑った。
「よかったぁ。みんな先に帰っちゃったからさ。阜、一緒に帰ろ〜」
その瞬間、分かってしまった。
みんなが必要としていたのは、初めから“私”じゃなかった。都合の良い時に一緒にいられて、人数合わせに丁度良い“誰か”。そこにたまたま私を当てはめていただけ。そんな“誰でもいい”位置にすら、最近の私はしがみつけなくなっているんだ。
その日から、みんなと居ることが一層辛くなった。
声をかけられるたび、遊びに誘われるたび、心臓を何度も針で刺されるような痛みが私を襲った。
なんだかもう、全てがどうでもよく思えてしまった。
「阜! 一緒に帰ろー!」
「……ごめん、さっき先生に呼ばれたから職員室行ってくる!」
逃げるように教室を飛び出した時、微かな達成感と抱えきれないほどの不安が同時に押し寄せてくるのを感じた。悲しくて、悔しくてぐちゃぐちゃな感情はどうすることもできなくて、家に帰ってから少し泣いた。
次の日から、誰も目を合わせてくれなくなった。
初めは気のせいかとも思ったけど、声をかけても反応してくれなかったり、曖昧に躱されたりするうちに、段々と自分の置かれている状況を理解していった。
私は彼女たちから見放されてしまったのだ。
見ないふり。知らないふり。
彼女たちにとっては簡単なことだったのだろう。
だって私は、初めからいてもいなくてもいい存在だったのだから。
* * *
あれから私は、同じように続く毎日を平常心で過ごすためだけに全神経を費やすようになった。
期待しないように。傷つかないように。ひとりでも平気でいられるように。たぶん、そんな風に過ごす毎日に耐えられなくなっていたんだと思う。
蓮のことを、勝手に“同じ”だなんて思い込んで、無理矢理付き合わせて。嫌な思いをさせたかも知れないって反省したのに、結局また琴ちゃんを傷つけた。
もう誰とも関わらない方が良いんだって、頭では分かっているのに。どうしようもなく弱い私は、いつも優しさを求めてしまう。
「……藤、工藤!」
「はいっ!?」
突然の大声に思わず体が飛び上がる。目の前に立っていた黒沢くんは一瞬目を丸くして小さく笑った。
「ごめん、すごいぼーっとしてたから。びっくりした?」
「うん……」
大きな音を立てて暴れている心臓に触れながら言うと、黒沢くんはまた少し口角を上げた。
ふと辺りを見回すと、教室はがらんとしていて蛍光灯の灯りは消えていた。日誌を書いているうちにぼんやりしすぎてしまった。あの頃のことばかり考えてしまうのも、きっと当時の夢を見てしまったせいだ。
「今日部活あんの?」
「ううん、今日は休みだよ」
握ったままだったペンを片付けながら応えると、黒沢くんは持っていたバッグを肩に掛け直して口を開いた。
「じゃあ、一緒に帰んない?」
なんとなしに発されたその言葉を聞いた瞬間、ぶわっと溢れ出した緊張が全身を巡った。なんだか今は緊張で声が出せない気がして、私は大きく首を縦に振った。再び速くなり始めた鼓動の音を感じながら、その原因を頭の片隅で考える。
その時、廊下から数人の足音と笑い声が響いてきた。
「あれっ? 黒沢じゃん、転入生の」
教室に入って来たのは、数人のクラスメイトだった。
黒沢くんを見てキョトンとした表情を浮かべたかと思うと、すぐに口角を上げて機嫌良さそうに歯を見せる。
「そーだ、これからカラオケ行くんだけど黒沢も行くー?」
陽気に笑う男子たちに、黒沢くんは「あー……」と言葉を濁した。嫌な予感が胸に広がった瞬間、黒沢くんの困ったような瞳が私の方を向いた。
“もう誰とも関わらない方が良い”。
改めてそう痛感したばかりだというのに、私はまた黒沢くんの優しさに甘えてしまっていた。
「ごめん」
思わず口から溢れた声に、その場にいた全員の視線が私に集中する。
「え……」
「私、先生に日誌出すの忘れてたから職員室行ってくるね。じゃ、また明日!」
慌てて声を繋いで、私は逃げるように教室を後にした。黒沢くんとクラスメイトの邪魔をしないための正しい判断だったはずなのに、胸の奥に重たいもやが溜まっていくような気がした。
言葉で表せないその感情は、まるであの時のもののようだった。
結局私は、あの頃から何も変われていない。




