96. 纏わりつく後悔
保健室を出ると、廊下の窓から差し込む茜色の光が視界に飛び込んできた。そこまで長い間保健室に居た気はしないのだが、空は瞬く間に表情を変えていた。
井口くんとの話を終えた直後、タイミングよく戻ってきた先生に井口くんを預け、私はひとりで体育館へ戻ることにした。
井口くんは転んだ際に足を捻っていたらしく、一応先生に診てもらってから部活に戻るということだった。
どうしてもっと早く言わなかったのかと問い詰めると、井口くんは困ったように笑って「工藤が自分のせいだとか言うから」と肩をすくめた。
事を大きくしたら私が更に自分を責めてしまうかも知れないと、井口くんは心配してくれたのだった。
そんなことを考えさせてしまったことを申し訳なく思って謝ると、井口くんは「こんなん自業自得だからな」と笑ってくれた。その笑顔は、いつも部活で見ているものより柔らかく見えた。
琴ちゃんの恋が実らなかったことは残念だったけれど、全てが丸く収まったような気がして私はほっと胸を撫で下ろした。井口くんにも正直な気持ちを伝えられたし、今後気まずくなることはないだろう。
そんなことを考えながら人気のない廊下を歩いていた私は、昇降口前に差し掛かった所で思わずぴたりと足を止めた。
下駄箱のそばで蹲る誰かの姿が目に入ったのだ。
慌てて近寄ると、小さく啜り泣くような声が耳に届いた。カフェオレのような色をしたふわふわの髪には見覚えがある。
「琴ちゃん……! どうしたの? 大丈夫?」
そっと背中に手を添えて声をかけると、ぴくりと小さな体を反応させた少女はゆっくりと振り返った。
乱れた髪の隙間から泣き腫らした目を覗かせたのは確かに琴ちゃんだったけれど、私は思わず目を疑った。ぷっくりとした涙袋は赤く腫れ、マスカラが落ちたのか頬には黒いあとがついていた。
その瞳から、また一粒涙が溢れ落ちる。
「工藤ちゃん、井口に告られたってほんと?」
くしゃりと顔を歪ませてそう言った琴ちゃんに、全身が大きく震えた。琴ちゃんが泣いている理由はそれだと確信する。何と言えばいいのか分からず混乱する頭の片隅で、どうしてそのことを知っているのだろうという疑問が浮かんだ。そんな私の心情を察したのか、琴ちゃんはぼそぼそと言葉を紡ぐ。
「井口が言ってたの。好きな人がいるって。それで、その人に……工藤ちゃんに、告白したって」
途切れ途切れにそう言った琴ちゃんの目にはまた涙が溜まっていた。その言葉を聞いて、全く井口くんを責めなかったと言えば嘘になる。なんてことを言ったんだ、と絶望する自分もいれば、隠すなんてもっと酷いことだ、と喚く自分もいた。
無意識に止めていた息を細く吐き出す。
しっかり説明しないと。
そう思って私が口を開くより先に、琴ちゃんが小さく「なんで……?」と震える声を溢した。
「私工藤ちゃんのこと信じてたのに、なんで私のこと裏切るの?」
真っ赤に充血した瞳が、一直線に私の瞳を貫く。
何も答えられなかった。もちろん琴ちゃんを裏切ったつもりなんてない。井口くんからの告白も、私が強要したものじゃない。そもそも私は井口くんの告白を断ったのだ。
それなのに、どうして琴ちゃんを裏切ったことになるのだろう。
頭の中では様々な考えがぐるぐると回っていた。
急速に姿を変えながら見え隠れする思考を追いかけ、口にすべき言葉を必死に探す。
「私は……」
「工藤ちゃんの嘘吐き……!」
弁解しようと発した私の声を遮り、琴ちゃんの叫びにも似た声が廊下中に響いた。その声色は拒絶的で、私の言葉が肯定でも否定でも受け入れてくれそうになかった。琴ちゃんの中で、私は既に悪者になってしまっているのだ。
「協力するフリして、私のこと嗤ってたんでしょ!? 馬鹿なやつだって思ってたんでしょ!?」
耳を劈くような金切り声が次々に浴びせられ、完全に思考が停止する。反論することも出来ないまま、私はただ力なく首を振り続けた。
“違う” “そんなこと思ってない”
今すぐにでもそう言って否定したいのに、喉が締め付けられてしまったかのようで声が出せない。
「お礼なんて言っちゃってばかみたい! そんなの……ツインテールなんて、やってあげるんじゃなかった!」
一層大きな叫び声が響き渡り、ガツンと頭部を殴られたかのような衝撃が走る。脳内で、柔らかく微笑む琴ちゃんの笑顔が弾けた。
謝罪の言葉ひとつすら言えないまま、私はその場から逃げ出した。
初めは後ずさるようだった足も、次第に速度を上げていく。気づけば体育館すら通り過ぎていた。
それでも私は、見えない何かを振り切るように走り続けた。何も考えたくないのに、脳裏にこびりついた琴ちゃんの悲痛な表情が浮かんでは胸を締め付ける。
あの日琴ちゃんに協力しなければ、初めから琴ちゃんに関わっていなければ、あんな風に泣かせずに済んだのだろうか?
こんなに苦しまなくて済んだのだろうか?
訳もなく浮かんでくる涙を乱暴に拭いながら、きっとそうなのだろうと思った。
あの時、失うのがどれだけ辛いことなのか、ちゃんと学んだはずだったのに。
優しい笑顔を向けられて、頼りにされたような気になって。……友達になれるかもしれないなんて、淡い期待を抱いてしまった。
日頃滅多に走ることのない足がじんと痛み、自然と速度が弱まっていく。どれだけ走っても喉元に纏わりつく後悔は消えてくれない。膝に手をついて呼吸を整えていると、やけに冷たい風がふたつに結ばれた髪をふわりと揺らした。
顔を上げると、そこは校舎と校舎を繋ぐ渡り廊下だった。夕焼けも終わり始めた空から、またひとつ強い風が吹く。
いつもより高い位置にある毛先が首元をくすぐった。
『阜』
こんな時ですら、記憶の中で笑う蓮のことを考えている。あの笑顔が消え去った日を、馬鹿な私はまた繰り返してしまった。
私はまた、間違えた。




