91. 無愛想な彼
「黒沢、お願いがあるんだけど」
私は混乱する阜をなんとか納得させ、雷校の控え室に戻るなり黒沢を廊下へ連れ出していた。
「なんだよ。試合前だぞ」
そう言いながらも後をついてきた黒沢に向き直る。
「黒沢が昨日私に言ってきたのと同じことだよ」
言うと、黒沢は訝しげに眉をひそめてからハッと目を丸くした。状況を理解した様子の黒沢に小さく頷き、はっきりと言う。
「阜に会って欲しい」
数秒の沈黙の後、黒沢は諦めたように小さく息を吐いた。
「工藤から聞いたのか」
いつもより低い声が耳に届き、全身に得体の知れない緊張が走る。
「……阜は、優しいよ」
迷いに迷った私が口にしたのは、阜を宣伝するような言葉だった。何を言っているんだ私は、と思いながらも、間違ったことは言っていないので訂正はしない。
阜は、優しい。だからこそ、どこか寂しそうに笑う阜を放ってはおけなかった。
やがて、俯き気味だった黒沢がわざとらしく大きなため息を吐く。
「それをお前が言うのかよ。俺、里宮にフラれたばっかなんだけど?」
おどけたように言った黒沢が自虐的な笑みを浮かべる。その口元は引き攣っていて、今にも歪みそうだった。鋭い針に刺されたような痛みが心臓に広がる。
「……ごめん」
阜のことで頭がいっぱいで、黒沢の気持ちを考えていなかった。教室でも体育館でも普通に接してくれる黒沢に甘えて、何事もなかったかのような顔をしてきた。少し、軽く考えすぎていたかも知れない。
今までの態度を思い返して反省していると、黒沢は「あー」と乱暴に髪を掻き乱してから私とまっすぐに目を合わせた。
「悪い、冗談だから。そんな気まずい顔すんなよ」
柔らかく笑った黒沢に「うん」と頷きながらも、私にはそれが本音なのか気を遣った言葉なのかすら分からなかった。
「……なんでだろうな。俺なんて全然、いいやつじゃないのに」
ふと、独り言のようにぽつりと黒沢が言葉を零す。
目を逸らしがちに俯く黒沢を見た瞬間、私は無意識に口を開いていた。
「黒沢はいいやつだよ」
お世辞でも気まぐれでもない。それは紛れもなく私の本心だった。黒沢にされたことも、忘れたわけじゃないけど。あの時は大嫌いで、憎くて仕方なかったはずなのに、今では自分でも驚くほど信頼している。
部活でも欠かせない存在だし、何より黒沢は高津の親友なのだ。
『鷹はいいやつだよ』
「……あいつと同じこと言ってんなよ」
呆れたように笑う黒沢に、小首を傾げつつ私も笑った。きっと阜は、私以上に黒沢のいいところを知っているのだろう。
「じゃあ」
短く言って片手を上げた黒沢に、私は「うん」とだけ応えてその場を後にした。背中の奥で、黒沢がどんな顔をしているのか分からなかった。
でも、私は、振り向いちゃいけない。
なぜだか分からないけど、そんな気がした。
それが、私たちの関係なんだ。
* * *
堂々とドアを開け放ち、その人は迷うことなく教卓の前に立つ。とても同い年とは思えない凛々しさに私は目を奪われた。軽く釣り上がった瞳は不機嫌そうで、どこか他人事のような態度は少し気になったけど。
その瞳の奥に、彼は優しさを隠していた。
それは、少し肌寒さを感じるようになった冬の日のこと。
「黒沢 鷹です。よろしくお願いします」
淡々とした口調でそう言った彼は、“これで終わり”とばかりに頭を下げて自己紹介を切り上げた。鋭い瞳に、スラッと高い背。短めの髪がよく似合う男の子。
黒沢くんは少し……いや、かなり無愛想だった。
「じゃ、工藤の隣座ってくれー」
寝癖なのか癖っ毛なのか分からないくしゃくしゃの髪を撫でながら、担任が私の隣の席をさした。
私は無表情のまま固く口を閉じて窓の外へ視線を向ける。頭の中では大混乱が起こっているなんて、絶対に気付かれないように。
ガタン、と音を立てて隣の席に黒沢くんが腰かける。
チラッと視線を向けてみるが、黒沢くんはどこを見ているのか分からないような瞳をしていた。
……どうしよう。こういう時って、挨拶とかするべきなのかな? それともスルー?
正しい対応が分からず無意味に身じろぎをしてしまう。せめて転入生が来ることを事前に知らせてくれれば、心の準備もすることができたのに。そんなことを思って、眠そうにあくびをしている担任にじとっとした視線を送る。
もちろんそんな視線に担任が気付くはずもなく、私はまた窓の外に視線を向けて小さく息を吐いた。
ふと、中学生くらいの女の子2人が楽しげに話しながら学校横の道を歩いているのが目に入った。制服ではなく可愛らしい服を身に纏った彼女たちの姿を見て、今日が土曜日だったことを思い出す。
休日にしては早めな時間だけれど、どこか遠くへ遊びに行くのだろうか。
どこの誰かも知らない子のことを考えながら、ぼぅっとその背中を見送る。
毎日が楽しくて、輝いて見えて、ふたりにしか分からない笑い話がたくさんあって。あぁ、私ってこんなに笑えたんだって驚くくらい、声をあげて笑って。
世界にふたりきりなんじゃないかって疑うような瞬間が何度もあって。
その感覚を、私は知っている。
滅多に笑わない彼女がほんの少し目を細めただけで、ふとした瞬間隣に居てくれるだけで、私は本当に嬉しかった。ただ、巡ってくるなんでもない日常を笑いながら過ごしていた。
そんな幸せが、突然終わってしまうなんて考えもしないまま。
「……な、工藤。工藤?」
「あ、えっ?」
「黒沢のことよろしくな」
「あ、はい……」
いけない、ぼーっとしてた……。
今でも、蓮のことを考え出すと止まらなくなってしまう。今更何を思ったって手遅れなのに。
小さく息を吐いてなんとなく隣に目を向けると、黒沢くんの横顔がやけに近く見えた。久しぶりの感覚に胸が高鳴る。隣に席があることも、そこに誰かが座っていることも。
今まで私は、ずっとひとりだったのだ。




