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黒を被った弱者達  作者: 南波 晴夏
第3章
86/203

85. もう二度と

世界が荒んで見えていた。

女の笑顔が気持ち悪かった。

その裏で、どんな悪行を企んでいるか分からない。


そんな私の妄想を、笑い飛ばして、塗り替えてくれた人がいた。

それが阜だった。

偽りだらけのこの世界で、阜の笑顔だけは本物だと信じていた。私に向ける優しさは、言葉は、明るさは、笑顔は、全て阜の本心だと思い込んでいた。


人を騙すなんて簡単だ。

身をもって思い知らされたというのに、私はまた偽物の笑顔に騙された。

私は、忘れたふりをした。

あの時の痛みを。もう二度と信じないという誓いを。


とっくに限界だったんだ。

静かになった家も、心を許したふりをして接する関係も。どれだけ強がっていたって私は、いつも孤独だった。寂しさに押し潰されてしまいそうだった。

だからあの時、阜が声をかけてくれて。

怖かったけど、憎らしかったけど。



本当は、少しだけ嬉しかった。




* * *




派手に泣いたせいか、頭がぼうっとしていた。

辺りに人の気配はなく、試合会場とは思えないほど静かな空間。声援やドリブルの音も全く聞こえない。

白校の勝敗どころか、試合が終わったのかどうかすら分からなかった。


膝に手をついて立ち上がり、大きなため息を吐く。

雷校の試合までにはまだ時間があるだろうが、どうせここにいたって意味はない。阜と会うはずだった場所は東階段で、ここは西階段なのだから。


とりあえず控え室に戻ろう。そう思って歩き出そうとした時、下の階から小さな足音が聞こえてきた。

完全に気を抜いていた身体が飛び上がる。

やがて階段の影から姿を現した人物を見て、心臓がドクンと大きな音を立てた。

手すりに手をかけ、片足を階段に踏み込んだ状態で固まっていたのは、ジャージ姿の阜だった。


「やっぱりここにいた」


短く言った阜の瞳が、まっすぐに私を捉える。

無意識に逃げ出そうとしていた私を、「待って!」という阜の声が引き止めた。


「お願い、今だけでいいから逃げないで聞いて」


まるでその声を私に届けようとするみたいに、開いた窓から湿った風が吹いた。ポニーテールに結んだ髪が背中で揺れる。何も言えずにいる私を気にすることなく、阜は俯き気味に話し始めた。いや、上から見ているから俯いているように見えるのか。

上段から見下ろす阜は、試合の時の姿が嘘のように弱々しかった。


「私、なんで蓮が急に私を避けるようになったのか、ずっと分からなかった。理由を聞こうとしても逃げられちゃうし、もしかしたら、“女”の私は最初から嫌われてたんじゃないかって……怖くなった」


震える身体を抑え、阜の言葉に耳を傾ける。

気を抜いたら逃げ出してしまいそうだ。今この瞬間も、阜のことが怖くて堪らない。唇を噛んで、どこからともなく襲いかかってくる恐怖に耐える。

ふと目を向けると、阜も私と同じように震えていた。


「私……何かしたなら、謝るから。怒らせたなら、傷つけたなら、本当に本当に謝るから。だからちゃんと、理由を聞かせてよ。蓮には沢山友達がいたけど、私には男女関係なく友達なんていなかった。蓮にとっては小さいことだったのかもしれないけど、でも、私は悲しかった。私には蓮しかいなかったから。だから……」


阜の声が震える。その瞳には涙が溜まっていた。

いつも元気だった阜の涙を見るのは初めてかもしれない。


「お願い……何も言わずに、私の前からいなくならないで……!」


くしゃっと顔を歪めた阜は、涙を隠すように顔を覆った。その姿からは、“元気なマネージャー”という印象は全く感じられなかった。

……もう、これで良いか。

気付くと、そんなことを考えている自分がいた。

阜がこんなに泣いてるんだ。

もう、許してやれば良いじゃないかーー。



『信じた私が馬鹿だった』


『人を騙すなんて簡単』


『忘れたふりをした』


『もう二度と信じない』



痛いくらいに染み付いた記憶が、頭の中を駆け巡る。

私は、伸ばしかけていた手を止めた。

……ダメだ。私の中の私が、何度もそう叫ぶ声が聞こえる。固く拳を握り、血が滲みそうなほど強く唇を噛む。……わかってる。

このままじゃ、また繰り返すだけだ。


「……阜」


やっとの思いで口を開く。ゆっくりと顔をあげた阜の瞳に私の姿が映る。少し前の私なら、今頃とっくに逃げていた。でも、みんなが教えてくれたから。

私はもう、昔のままの私じゃない。


「中三の冬、私、聞いてたんだ。阜がクラスメイトと話してるとこ」


それだけでは分からないのか、阜は軽く小首を傾げた。私は、もう逃げなかった。

あれから何度も私を傷つけてきた言葉を、自ら口にする。


「 “やっぱ里宮さんって男好き?” “阜もさ、男子の気を引くために里宮さんのそばにいるんでしょ?” 」


ひとつひとつの台詞を聞くごとに、阜の目が大きくなっていくのを、私は見逃さなかった。


「 “だからさ、里宮さんの友達なんてやめた方がいいよ” 」


阜の唇が震えているのが見える。

大きく息を吸い込んで、私は、続けた。


「 “ねぇ、阜” 」


その場が水を打ったように静まり返る。

数秒の沈黙の後、阜は静かに「ちょっと待ってよ」と声を震わせた。


「その時のことは、確かに覚えてるけど……。蓮、それだけ? 蓮が聞いたのは、本当にそれだけ?」


また泣きそうな顔をした阜に、今度は私が首を傾げる番だった。それ以降の会話を、私が聞いている訳がない。阜に裏切られたと理解した瞬間、私はその場から逃げ出したのだから。そんな私の様子を見た阜は、呼吸を整えて、先程の私と同じように言った。


「 “いい加減なこと言わないで” “蓮のこと何も知らないくせに” 」


細かく震えた阜の言葉を、ゆっくりと脳が理解していく。私は、自然と目を見開いていた。

顔を上げた阜の瞳が、まっすぐに私を射抜く。


「 “私は、蓮のことが好きだよ” 」


……そんな。

阜のまっすぐな瞳に捕えられてしまったかのように思考が停止する。混乱する脳内ではひたすらにあの日の光景が流れ続けていた。

……私の知らない、あの日の真実。

ただ呆然としている私を見て、阜は眉尻を下げた。


「……そういう、ことだったんだね」


まるで独り言のように、阜が呟く。

混乱しすぎて何も言えず、私はただ阜の顔を見つめることしか出来ない。

阜の瞳から、流れるようにひと粒の涙が零れた。


「気づけなくて、ごめんね」


鼻の詰まった声が、哀しく鼓膜を揺らす。


「……信じて、もらえないよね。もう、許してもらえないよね。……でも、これだけは信じて」


小さく、息を吸う音が聞こえる。

やがて弾かれたように顔をあげた阜は、涙を拭うこともしないまま、胸に手を当てて声を絞り出した。


「私は、蓮のことが大好きだよ……!」


『蓮、大好き!』


懐かしい声と眩しい笑顔が脳裏で弾ける。

視界がぼやけ、堪えていた涙が溢れ出した。


「私、ちゃんと蓮と向き合うのが怖かった。なんで避けられてるのか分かんなくて、“嫌いだ”って、直接言われるのが怖くて……! 蓮が、白校の受験辞めた時も、私、縋るようなことしか言えなかった……」


『蓮! なんで雷門に行っちゃうの!?』


「だから、せめて次会った時は、笑顔でいようって……。そしたら、もしかしたら蓮も、笑って返してくれるかもしれないって……」


『久しぶり! こんなところで会うなんて、偶然だねー!』


笑顔で手を振る姿を思い出し、思わず目を丸くする。

あの時の阜は、そんなことを考えていたのか。


「蓮は私なんかに会いたくなかったよね。本当に、本当にごめんね」


私は無意識に小さく首を振っていた。

違うよ、阜。謝るのは私の方だ。

一段一段、踏みしめるように階段を下りて阜との距離を縮める。


「ごめん、阜」


謝られるとは思っていなかったのか、阜は涙に濡れた瞳を丸くした。


「あの時、私が逃げないで話を聞いてたら、こんなことにならなかった。……ごめん」


「……信じてくれるの?」


震えた声が鼓膜を揺らす。私はぐっと拳を握りしめた。阜の言いたいことは分かっている。

阜が今教えてくれたあの日の出来事が、事実だという証拠などどこにもない。証明する術もない。

……本当は、まだ怖い。怖いに決まってる。

でもーー。


『取り戻せ!』


私は、阜を取り戻したい。


「信じるよ」


自分に言い聞かせるように、ハッキリと口にする。

阜の頬を伝った涙がポツポツと床に落ちた。その姿は、なんだか無垢な幼女のように見える。

……そうだ。ずっと、私が見てきた阜は。


「……阜は、そんな嘘吐けるほど器用じゃない」


目を細めてからかうような口調で言うと、阜はぐにゃりと顔を歪ませた。両手で顔を覆い、肩を震わせる。

私は少し迷ってから阜の頭に手を置いた。いつか阜がそうしてくれたように。

やがて涙を拭って顔をあげた阜は、歯を見せて明るく笑った。昔から、何も変わっていない。

いつも、私を元気付けてくれた笑顔。


「蓮、大好き!」


細められた目の端から、また涙がするりと頬を滑る。中学の頃毎日のように感じていた愛しさが胸に込み上げてくる。


「私も、好き!」


がむしゃらにそう言って、私は思わず阜の胸に飛び込んだ。柔らかく温かな感触が身を包む。

やがて私の背に、優しく阜の手が触れた。時間が巻き戻ったような錯覚に襲われる。

どちらからともなく目を見合せ、私たちは笑った。

阜と同じ場所に立てば、私はやっぱり阜を見上げた。


「蓮、私の友達になってくれる?」


しっかりと目を見てそう言った阜に、私は思わず吹き出して笑っていた。


「今更かよ!」


そう言って私は、歯を見せて笑った。

つられたように、阜も笑う。


“もう二度と”。


……私は、阜を失わない。




ふたりだけの空間に、あの頃と同じ笑い声がいつまでも響いていた。

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