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黒を被った弱者達  作者: 南波 晴夏
第2章
82/203

81. 黒猫の道案内

「ほ、本当にいいのか? あがっちゃって……」


「うん。高津こそ部活休んで良かったの?」


「ん〜、まぁ明日もあるし……」


曖昧に言葉を濁すと、里宮は「それもそうだね」と真顔のまま頷いた。そんな里宮の腕の中では、タオルに包まれた子猫が眠っている。

俺と里宮はあのまま部活に出ることなく、里宮の家にやってきていた。


子猫が心配だったこともあるが、寝込んでいるという里宮父のことも気になった。

元々父の看病で部活を休もうとしていた里宮に、子猫の世話という思わぬハプニングが加わったことを考えると、あのままひとりで帰らせる気にはなれなかった。


お節介かもしれないが、少しでも手伝えることがあるのなら力になりたい。

部活は……夏休みにはこれでもかという程練習があるわけだし、一日くらい休んでも大丈夫だろう。

脱いだ靴を揃えて立ち上がると、どこからか唸るような声が聞こえてきた。

やがて書斎らしき部屋のドアがゆっくりと開く。


「す……睡蓮、帰ったのか……?」


そこに立っていたのは、よろよろふらふら、スウェット姿の里宮の父だった。


「お、お邪魔します……」


あれ、先に“お大事に”だったかな……?

衰弱しきったその姿に困惑していると、里宮が隣で大きなため息を吐いた。


「父さん、今まで何してた?」


「え、ちゃんと寝てたよ〜」


「嘘つけ。どーせ仕事してたんでしょ」


「そ、そんなこと……」


図星だったのか視線を泳がせる父に、里宮はまたわざとらしく大きなため息を吐いた。


「あ、猫ちゃん……!」


俯きかけた視界に里宮の抱き抱える猫が映ったのか、里宮父は高い声をあげた。

何の断りもなく子猫を連れてきた里宮に、父が反対したりしないか心配だったのだが、どうやら俺の取り越し苦労だったようだ。


「かんわいいねぇ〜」


……反対どころか、デレデレだ。

そんな父親の姿に、里宮は完全に呆れた顔を浮かべていた。

挙句の果て里宮は足で無理やりドアを閉めはじめた。


「病人は寝てろ」


吐き捨てるような声と共に勢いよく閉まったドアの向こうから、「ねこちゃぁぁん!」という叫びに近い声が聞こえるが……。

気付かないフリした方が良いんだろうか。

そんな書斎を尻目に、俺は里宮の後に続いてリビングに入った。


「お邪魔しま〜す……」


前から気づいてはいたけど、里宮の家はやっぱりどでかい。リビングのドアを開けるだけで、もう一度断りを入れなくてはならないような気持ちになる。

そんなことを分かりもしない里宮は、「既にお邪魔してんだけど」と可笑しそうに笑っていた。


抱いていた子猫をソファに乗せた里宮は、「あ」と声を漏らして立ち上がった。


「こいつのミルク買って来なきゃ。ミルクってゆーか、猫缶? とりあえずテキトー買ってくるから、高津見張ってて」


「え、待って俺が……」


言いかけた俺の言葉など聞きもせず、里宮はさっさと部屋を出て行ってしまった。

相変わらず人の話を聞かないな……。

小さく息を吐いてソファの上に目を向けると、子猫は既に瞳を閉じて丸くなっていた。


知らない場所に連れて来られたっていうのに、随分呑気なものだ。猫といえば警戒心の塊のように思っていた俺は思わず拍子抜けした。

人差し指でふわふわの毛を撫でていると、唐突にドンッと大きな音が部屋中に響いた。


その音が先程の書斎から聞こえた気がして、嫌な予感が胸に広がっていく。

子猫が変わらず眠っているのを確認し、俺は慌てて里宮父の元へ向かった。

先程里宮が足で閉めたドアの前に立ち、軽くノックをする。


「あの、すごい音しましたけど大丈夫ですか?」


しばらくそのまま耳を澄ませるが、一向に返事は聞こえてこない。一層不安が募っていく。

ドアノブに手をかけると、鍵はかかっていなかった。


「失礼します……」


一応断りを入れて静かにドアを開けると、閉め切ったカーテンの隙間から漏れる光がちょうど目元にあたった。思わず顔の前に手をかざし、薄暗い部屋を見回すと、カーペットの上にうつ伏せで転がっている里宮父の姿があった。

どうやらベッドから落ちたらしい。


「だ、大丈夫ですか……」


予想外の状況に驚きながらも声をかけると、ゆっくりとした動きで体制を変えた里宮父は薄赤い頬を緩めた。


「大丈夫だよ……。驚かせてごめんね……」


蚊の鳴くような声でそう言った里宮父は、どこからどう見ても大丈夫そうではなかった。


「あの、水とか持ってきますか?」


躊躇いがちに言うと、里宮父はどこか恥ずかしげに含み笑いを漏らした。


「実はね……睡蓮がいない時に水を飲もうと思ったんだけど、キッチンまでの道のりが案外遠くてね……。貞子みたいに這いつくばって頑張ったんだけど、途中で力尽きちゃって……。もう水は諦めて戻ろうとしたら金縛りにあってて……。ベッドに戻るまで2時間かかったんだよ……。いやぁ、長い道のりだったなぁ……」


掠れた声で言った里宮父は、ふふっと可笑しそうに笑った。


「……俺、水持ってきます」


「ふふ、悪いねぇ……」


今にも死にそうな里宮父に背を向け、俺は部屋を出た。それにしても、水一杯のためだけにどれだけ過酷な経験をしているんだ……。

結局目的は果たせなかった訳だし……。

里宮はただの風邪だと言っていたが、普段の疲れなども重なっているのだろう。


適当にコップを借りて水を汲み、部屋に戻ると、里宮父は床に寝転んだまま小さな寝息を立てていた。

起こすのも悪いと思い、近くのテーブルにコップを置いてベッドにあったタオルケットを軽くかけた。


「百合……」


掠れた声が発した言葉に、心臓を貫かれるような思いがした。里宮父の表情は影に隠れて見えない。

胸の中心がズキズキと痛んだ。

大切な人を、家族を失うという感覚を、俺はまだ知らない。

里宮の気持ちも、完全に理解してやることは出来ない。

それはきっと、俺の想像を超える痛みなのだろう。


その時、玄関のドアが開く音がして、俺は慌てて書斎を出た。


「お、おかえり」


「ただいま。ごめん、父さんが何かした?」


「や、なんでもないよ」


適当に誤魔化してリビングに戻ると、里宮はソファの前に屈んで子猫の小さな頭を撫でた。


「こいつの名前、なんかある?」


軽く首を傾げた里宮が子猫を顎でさして言うが、俺には何も浮かばなかった。

しばらく真剣な目つきで子猫を見つめていた里宮は、ふと思い出したように顔をあげた。


「ヨミ」


それだけ言い放った里宮に、「ヨミ?」とオウム返しにするが、里宮は気にすることなく子猫を抱き上げだ。


「おまえ、ヨミでいい?」


里宮が小首を傾げると、子猫もかくんと小首を傾げて小さく鳴いた。


「え、なんでヨミなの?」


気になっていたことをそのまま口にすると、里宮は「さぁ」と適当に答えて、子猫を……ヨミを撫でた。


「思いつき?」


首を傾げながら言う里宮に、思わず苦笑いを浮かべる。


「母さんが言ってたんだよね。黒猫は“ヨミ”までの道案内をしてくれるんだって」


なんでもないことのように言った里宮の言葉に、思わず緊張が走る。里宮の口から母親の話を聞くのは珍しいことだった。過剰に反応してしまわないよう、小さく息を吐いて平然を装う。


「道案内って?」


「“黄泉(ヨミ)”までの。つまり“あの世”ってこと。まぁ、後で調べてみたら完全に母さんの妄想だったけど」


そう言って気だるそうな目を細めた里宮は、なんだかいつもより優しい雰囲気を纏っている気がした。


「それで一時期、母さんが黒猫飼いたいって言っててさ。あの頃はなんとも思ってなかったけど、今なら猫好きな父さんがなんで反対したのか、私にも分かるよ」


あの世までの道案内をしてくれる黒猫。

里宮の父には、その姿が妻の死を暗示するものに見えたのかもしれない。


『百合……』


里宮父も、ヨミを見て今の里宮と同じことを思い出したのだろうか。


「独りで行くのが怖かったのかな」


ヨミを撫でながら、力のない声で里宮が言った。

その背中はいつもよりずっと小さく見える。


「たまに思うんだよね。ちゃんと行けたかなって」


「……大丈夫だよ」


俺には、こんな気休めを言うことしか出来ない。

里宮を救うような、里宮の心に届くような言葉なんて持ち合わせていない。

俺には話を聞くことしかできないけど。


「ヨミが来てくれたからさ。もし里宮のお母さんが迷ってても、きっと案内してくれるよ」


言うと、里宮は振り返って「そうだね」と微笑んだ。

やがてヨミを抱き上げ、仏壇の前に座った里宮は、ヨミの肉球を写真の中で柔らかく笑う母親に向けた。


「母さんのことよろしくね」


そう言った里宮に答えるように、ヨミは「ミャア」と元気よく鳴いていた。

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