77. まっすぐになりたかった
『ウザイんだよ、お前!』
『話しかけんな!』
『ごめん、高津……。あいつには逆らえねぇよ……』
……人間なんてそんなものだと思った。
傷付けることは簡単で、助けることなんて到底出来ない。あたりまえのようにいじめが始まって、どんどん物がなくなって、汚されて、体にも痣が増えていった。それでも手を差し伸べてくれる人なんて誰もいなかった。
失望したような思いの中、それでも別に良いんじゃないかと思う自分もいた。
他人の不幸を見ても、自分が安全ならそれで構わない。結局はそれが人間だし。
俺だって逆の立場だったら、みんなの前で“やめろよ”なんて言える自信はなかった。
だから俺は、クラスメイトの“見て見ぬフリ”を恨んだことはない。
俺が嫌だったのは、クラスメイトたちから感じる同情の視線だった。
いっそのこと無視して、何事もないように過ごしていてくれれば良いのに。
みんなが俺を見ているから。影で声をかけてくれるやつがいるから。絆創膏を渡してくるやつがいるから。
俺は、どうしたって期待してしまった。
誰も助けてくれないんだと、何度も自分に言い聞かせたくせに、それでも淡い期待を抱いてしまう自分がいた。
期待するたび勝手に裏切られた気になって、どんどん苦しくなっていった。
いっそのことクラスメイト全員が冷たい人間だったなら良かった。
そういう無責任な“優しさ”が、俺にはどうしようもなく苦しかった。
今思えば、人任せな思考だったのだろう。
自分では何も言えないくせに、誰かが代わりに怒ってくれるのを期待していた。
自分だって逆らえないくせに、誰かが逆らってくれるのを期待していた。
自分の出来ないことを、他人に望んでいた。
……今の俺が、もしあの頃に戻れたら。
正直に“嫌だ”って言えたのかな。
もしあの場にあいつらがいたら、“やめろよ”って大声で怒鳴ってくれたのかな。
『人間なんてみんな同じなんだよ!』
……鷹。
俺がもし、あの頃鷹の痛みに気付いてやれてたら。
お前の口からあんな言葉を聞くことなんてなかったのにな。
「茜」
聞き慣れた声のはずなのに、どこか懐かしく感じるのはなぜだろう。
未だにあの頃の声が上書きされないんだ。
どうしてか俺は、あの頃の鷹と、今目の前にいる鷹を、別人のように思ってしまうんだ。
「……話したいことがある」
「……うん」
鷹の本心をもっと知りたい。
俺の本心をもっと知って欲しい。
あの頃からずっと、電話越しに言いたくても言えなかったことが沢山ある。
それはきっと鷹も同じはずだ。
“あの頃”から解放されたいのは、俺も鷹も同じなんだ。
* * *
相変わらず人のいない開けた空間を、強い風が吹き抜けていく。
所々に雲は見えるが、それなりに晴れた空が俺たちを見下ろしていた。
4限の授業が終わるなり声をかけてきた鷹に連れられ、俺たちは屋上にやってきていた。
小さな悲鳴をあげながらドアが開き、そのままベンチに向かおうとした俺を鷹の声が引き止める。
「茜、こっち」
小さく手招きをしながらそんなことを言う鷹に、首を傾げつつも素直に従う。
入り口まで戻ると、鷹は俺の腕を掴んで塔屋の裏に誘導した。
「ちょ、なんだよ?」
行動の意図が分からずに眉をひそめると、鷹は「ちょっとここにいて」とますます訳の分からないことを言い出した。
「“話したいことある”んじゃなかったのかよ」
「まぁ、そこで見てて」
何ひとつ説明しないままそれだけ言って離れて行く鷹に、思わず大きなため息が漏れる。
「つーか、“見てて”って何を……」
口から溢れ出した文句が、再び鳴り響いた高音にかき消される。
唐突に開かれたドアから姿を現したのは里宮だった。
屋上の中心にいた鷹の視線と里宮の視線が絡まる。
その状況を理解した俺は、口元を押さえて身を隠した。
『ちゃんと答える』
昨日の昼休み、やけに穏やかな顔でそう言った里宮を思い出す。その表情からは鷹への敵意や嫌悪は感じられなかった。
里宮は鷹の言葉を真剣に受け止めている。
そして今、その“答え”を言いに来たのだろう。
「……ごめん」
唐突にそう言った里宮は、視線を泳がせながら話を続けた。
「何て言えばいいのか分かんないけど……私、“好き”とか考えたことない。たぶん、考えても理解できないと思う。黒沢が、なんで私のこと……好きになったのかも、分かんない」
申し訳なさそうに目を伏せる里宮の声は真剣だった。
里宮なりに考えて、分からなくても本当の気持ちを話そうとしているのだろう。
「……正直、俺にも分かんないんだよ。いつからお前のこと好きだったのか。……ただ、変わったやつだなと思った。俺の言うこと一切聞かねぇじゃん、お前。そのくせ茜のことは守るって言うし、怖がってんのバレバレなのに強いフリするし。……ほんとは俺も、お前みたいにまっすぐになりたかった」
だんだんと語尾が小さくなり、鷹は微かに下を向いた。その瞳には諦めの色が浮かんでいるように見えて、胸が苦しくなる。
里宮を“まっすぐ”だと言った鷹も、里宮のことを“まっすぐ”に見ていたはずなのに。
「お前のことが羨ましくて、お前の近くに居れるやつが羨ましくて。……お前が、あいつらの前で楽しそうにしてるのが気に食わなかった。それが嫉妬だって気付いたのは、お前に嘘吐いた後だったけどな」
そう言って、鷹は呆れたように肩を上下させた。
羨ましいとか、嫉妬とか、そんな言葉を鷹の口から聞くのは初めてだった。いつだって鷹は、それを受ける側の人間だったから。
鷹にも俺と同じ感情があったことになんだかほっとする。
一方で、里宮は相変わらず難しそうな顔をしていた。
「私はただ、あいつらを傷つけたくなかっただけだ。まっすぐとか、意識したことない。嫉妬もしたことないし、どんな感情なのか知らない。……でも、黒沢の気持ちは疑ってない。真剣に答えなきゃいけないってことくらいは分かる」
どこまでもまっすぐに、里宮は鷹の瞳を見つめていた。その声色も、発する言葉ひとつひとつが本心であることを物語っている。
「黒沢のことは、初めはなんだこいつって思ってたけど、今はそんなに悪いやつじゃないんだって思ってる。黒沢の言葉にも、共感できるところはあったし。……でも私は、黒沢のこと仲間として見ることは出来ても、やっぱり恋愛的に見ることは出来ないと思う。……だから」
里宮はひとつ息を吐くと、意を決したように口を開いた。
「黒沢の気持ちには、応えられない」
ぐっと拳を握りしめて、はっきりと里宮は言った。
その言葉が、どれだけ鷹の心を刺しただろう。
どれだけ、里宮自身を刺しただろう。
長い沈黙の後、顔をあげた鷹の唇がゆっくりと動く。
「……知ってた」
呟くような声でそう言った鷹は、驚くほど穏やかな表情で笑っていた。
やがてわざとらしく大きなため息を吐いた鷹は、顔の前で組んだ手を前に突き出して伸びをする。
「はぁ〜あ、俺も無駄なことしたよなぁ。茜のためだなんて言って、結局自分が罪滅ぼししたいだけだったんだろうな。茜に嫌われて、楽になりたかったんだろうな。……ほんと、馬鹿だよなぁ」
そう言った鷹は、まるで憑き物が落ちたような顔をしていた。そんな鷹を見て安堵が胸に広がり、思わず頬が緩んでいく。
里宮の顔にも期待の色が浮かんでいた。
「もう、無意味なことは辞めるよ」
俺たちが待ち望んでいた言葉が、確かに鷹の口から発せられる。
一瞬目を輝かせた里宮に、「ただし!」という鷹の声がストップをかけた。
「俺も、バスケ部に入れてくれないか?」
予想外の言葉に、俺は思わず目を丸くしていた。
見ると、里宮も同じように驚いた顔をしている。
「……黒沢ってバスケ出来んの?」
里宮がキョトンとした顔で言うと、鷹は呆れたように笑った。
「ひでぇなぁ。そんな似合わないかよ。まぁ、やったことないけど。……俺がやりたいのはバスケじゃなくて、マネージャー」
マネージャー……?
聞き慣れない響きに首を傾げる。
確かに雷校バスケ部にはマネージャーがいない。
清掃やドリンクの準備など、必要な仕事は部員たちで回してなんとかこなしていた。
その分練習時間が削られてしまうため、マネージャーが欲しいと言い出す部員も少なくなかった。
鷹がマネージャーとして入部してくれるなら、正直とても助かる。
他の部員たちも歓迎してくれるだろう。
「……バスケ部、なくならないってこと?」
少し震えた声で縋るように言った里宮に、鷹は「あぁ」と大きく頷いた。
生ぬるい風に乗せられ、長い黒髪が踊る。
「ありがとう、黒沢」
「……俺も。ちゃんと答えてくれてありがとな」
少し照れ臭そうに、でもまっすぐに、鷹が言う。
それを聞いた里宮は、気だるそうな目を微かに細めて、優しく微笑んでいた。
……こうして、鷹の初恋は幕を下ろした。




