73. 取り戻せ
「いてっ」
思わず声をあげ、体の動きを止める。
練習を終えて部活着から制服に着替えているうちも、体中が悲鳴をあげていた。
緊急練習試合のことが知らされてから、練習はいつも以上に厳しくなった。
当然練習量も増え、部活内の空気はどんどん重くなって行く。
他の部員たちも相当消耗している様だった。
それでも、文句を言う部員はひとりもいなかった。
皆、バスケ部を守ろうと必死なんだ。
……本当なら、先輩たちの引退試合はずっと先のはずだった。
もっと練習が出来て、もっと部員のみんなと過ごす時間があって。
……でも、夏休みに開かれる緊急練習試合に勝てなければ、3年生どころか部員全員の引退試合になってしまう。
そうなる前に、俺が鷹を止めないと。
……全ての原因である俺が。
「高津ー」
名前を呼ばれ、反射的に振り返ると部室の出入口に川谷が立っていた。
「昨日、里宮と話せた?」
「あぁ……」
話したって言うか、逃げられたって言うか……。
昨日の出来事が頭の中を駆け巡り、思わず大きなため息が漏れる。
昨日のことを少しずつ話して行くと、相槌を打っていた川谷が目を丸くして言った。
「高津、里宮に嫌いだって言ったの?」
心外な言葉に、思わず「言ってねぇよ」と即答する。
「思ってもないし……」
なんで里宮があんなことを言い出したのか、俺だって分からない。小さく息を吐くと、川谷も「だよなぁ〜」と難しい顔をした。
「里宮って、あんま自分のこと話したがらないからなぁ。分かってるつもりでも、やっぱり言葉がないと難しいよ」
寂しげに目を細めて言った川谷に、小さく頷く。
みんなと過ごしてきた中で、里宮のことも少しは分かったような気になっていた。
笑顔も、弱さも、たまにだけど見せてくれるようになって。……それでも、まだこんなに遠い。
今の里宮は、なんだか壁があるように感じられた。
「……せめて相談してくれれば、今みたいに一緒に悩めるのにな」
ぽつりと、ため息混じりに川谷が言った。
思わず項垂れていた顔をあげる。
それは、俺が……いや、俺たちがいつも考えていたことだった。
たとえ解決出来なくても、誰かに話せば心は軽くなる。
……俺だって。
『元気出せよ』
『今日、それ以上のことをするしかねぇな』
相談に乗ってもらって、心を軽くしてもらった。
悩みを分けることができた。
……でも。
『私のことは私がどうにかする』
『高津には関係ない』
里宮は、あの小さな体で多くのトラウマと感情を抱え込んで、誰に頼ることもなく無表情でいる。
元々オープンな性格ではないんだろうけど、たまには吐き出したって良いんじゃないか?
……誰かを信じて、頼ることも必要なんじゃないか?
「……やっぱり、里宮とちゃんと話して来るよ。昨日のことも謝りたいし」
「……いいのか? 謝るだけで」
心配そうに眉をひそめた川谷に、大きく頷く。
「今は、里宮が元気になってくれれば充分だから」
俺の感情を押し付けて、里宮を困らせるようなことはしたくない。
今は、里宮の気持ちの方が大事なんだ。
階段を駆け下りて行くと、廊下の先に小さな人影が見えた。
高く結ばれた長い黒髪が背中で揺れる。
やっぱり好きだな、と素直に思った。
……でも。
今俺が言いたいのは、それじゃないんだ。
「里宮」
しっかりと名前を呼ぶ。
振り返って、俺の姿を捉えた里宮の瞳が微かに揺れた。
「……昨日のこと、だけど」
緊張で声が震える。
里宮は頷きこそしないが、昨日のように逃げたりはしなかった。
「俺、里宮のこと嫌いだなんて思ってないよ」
言うと、里宮は小さく頷いて「私も」と顔を上げた。
「高津のこと、関係ないなんて思ってない。……ごめん」
呟くような声はだんだん尻すぼみになり、やがて消えた。先に謝られるとは思っていなかったので、俺は少し驚いた。
「いや……俺も言いすぎたし、ごめんな。……昨日も」
ピクッと、里宮の肩が動く。
俺の言う“昨日”がなんのことか分かっているのだろう。
「つい、必死で……その、仲間って意味だから。嫌いとかありえないってこと」
言うと、里宮は顔をあげて真顔のまま「うん」と頷いた。……それだけ?
あまりの反応の薄さに拍子抜けする。
「……本当に分かってる?」
「たぶん」
「たぶんて……」
適当すぎるだろ。
悪びれもせず無表情でいる里宮に、思わず呆れ笑いが漏れる。
まぁ、怪しまれてないみたいだから良いか……。
「……黒沢から、聞いたの?」
ハッとして目を向けると、里宮の真剣な瞳が真っ直ぐに俺を見ていた。
俺たちの関係を壊すと言った鷹の顔が浮かび、小さく頷く。
「……でも、俺は、このまま皆と話せなくなるなんて嫌だよ」
何気ない日常も、俺からしたら特別だった。
また独りで3年間過ごす覚悟でいたのに、皆は俺の想像を易々とひっくり返してしまった。
またこんな風に誰かと笑い合えるなんて、思ってもみなかったんだ。
俺にとっては、奇跡みたいなことだった。
夢みたいなことだった。
……里宮にとっては、なんでもないことだったのかもしれない。俺たちの存在なんて、そんなに特別じゃないのかもしれない。
俺とは違って、里宮は。
……そんな風に考えるのは、もう辞める。
「里宮は、どう思ってる?」
勝手に決めつけるのはもう辞める。
分かったフリをするのももう辞める。
本当の気持ちも、まだ知らない里宮のことも。
これからは、ちゃんと聞くから。
……だから、教えて欲しい。
「……私、は」
か細い声が微かに鼓膜を揺らす。
その瞳は潤んでいた。
「……もう、傷つけたく、ない」
震えた声で言った里宮は、悲痛に顔を歪ませた。
「私のせいで、みんなを傷つけた。緊急練習試合も、私が黒沢の言うこと聞かなかったから……」
「鷹に、何か言われたのか?」
思わず里宮の声を遮って言う。
里宮は一瞬口を開きかけたが、また目を背けて黙り込んでしまった。
「……なんで」
そんな辛そうな顔してるのに、頼ってくれないんだよ。ひとりで抱え込んで、全部自分のせいだって思い込んで……。
そんなの、苦しいだろ。
「……ごめん。傷つけたくないから……言えない」
そう言って、里宮はキュッと唇を結んだ。
“傷つけたくないから”。
確かにそれは、正当な理由のように聞こえた。
里宮は、きっと俺と同じようにみんなを大切に思っているだろうから。
傷つくことも、傷つけることも辛い。
でも、俺たちはそれだけで終わってしまうのか?
ほんの少し間違えただけで、全部壊れてしまうのか?
俺たちは、そんなに脆いのか?
「里宮」
潤んだ瞳が俺の方を向く。
俺は、頭に浮かんだ“それ”を、受け止めるようにゆっくりと口にした。
「里宮は、たぶん、俺たちのことを信じきれてないんだ」
俺の言葉に、里宮は大きく目を見開いた。
傷つけるのが怖いから、本当のことを言えない。
心から信じられないから、誰のことも頼れない。
俺たちが里宮を信じているように、里宮も俺たちのことを信じてくれている。……そう思いたかった。
でも、“それ”はきっと事実だ。
悩みを分ける。辛いことがあったら誰かに頼る。
その行為を、里宮は避けていた。
たぶん、無意識に。
信じて裏切られることだってもちろんある。
里宮はそれを何度も経験してきた。
もう傷つきたくないって、もう信じたくないって気持ちは、痛いほど分かる。
……でも、俺は。
「傷つくかもしれなくても、俺はあいつらと居たい。
失敗しても、やり直せるって信じてるから。……里宮も、みんなのこと大切だから悩んでるんだろ?」
なるべく優しい声で言うと、里宮は涙を拭いながら何度も頷いた。
その姿を見て、なんだかほっとする。
「傷つくとか傷つけるとか、いちいち気にしてたら誰とも関われないだろ。……俺たちは、なんだって思ったように言い合えば良いんだよ」
そうすれば、心は軽くなるから。
悩みも不安も分け合えるから。
「里宮」
涙で濡れた瞳が、ゆっくりと俺の方を向く。
俺は、拳を差し出して、言った。
「取り戻せ!」
俺たちは、こんなところで終わるほど脆くない。
何度だってやり直せる。失敗しても取り戻せる。
歯を見せて笑うと、里宮は力強く目元を拭い、握った拳を俺の拳にぶつけた。
大きく頷いて、里宮は赤くなった目を微かに細めていた。




