72. 分かんなくていい
じめじめとした空気が充満していた。
薄暗い廊下の窓から、飽きもせず降り続けている雨が見える。
五十嵐を保健室まで送り、俺は電気も消えた廊下をひとりで歩いていた。
ふと、保健室の椅子に座った五十嵐の小さな背中を思い出して、胸が締め付けられる。
『悪い。……気にしなくて良いから』
あんな震えた声で言われたら、気にしないなんて出来るはずない。
五十嵐だって、本当は分かっているはずなんだ。
里宮が倒れたのは、五十嵐のせいなんかじゃない。
俺だって、里宮の異変に何ひとつ気づけなかった。
その時、雨音に紛れて小さな足音が廊下に響いた。
思わず足を止めて顔を上げると、廊下の角から小さな人影が現れるのが見えた。
人影は、俺の存在に気づいたのかピタッと動きを止めて硬直する。
そこに立っていたのは、黒い部活着に身を包み、長い黒髪をポニーテールに結んだ里宮だった。
「里、宮……」
思わず、掠れた声が溢れる。
里宮はいつものけだるそうな瞳を丸くしてその場に佇んでいた。
昨日のことを思い出し、思わず目を逸らしたくなってしまうが、ぐっと拳に力を込めて口を開く。
聞くなら、今しかないと思った。
「……“緊急練習試合”のこと、鷹が提案したんだって。……里宮、知ってたのか?」
里宮が最近悩んでたのは、このことだったのか?
ずっと、ひとりで抱えてたのか?
里宮は下を向いたまま答えない。
その反応を見て、また胸にもやが溜まっていく。
「……なんで黙ってるんだよ」
里宮は答えない。
「言ってくれなきゃ分かんないだろ」
次の瞬間、里宮は勢いよく顔を上げた。
小さな体を震わせて、今にも泣き出しそうな目をしている里宮は、幼い少女のように見えた。
その表情に、一瞬で強く胸が締め付けられる。
里宮は、震える拳を握りしめて、絞り出すように言った。
「分かん、なくて、いい……!」
くしゃっと顔を歪めて逃げ出した里宮の背中で、長い髪が揺れる。
「里宮!」
呼び止めた俺の声に、里宮が反応することはなかった。
もう、里宮が何を考えているのか、全く分からない。
……それでも。
その小さな背中に向かって、俺は走った。
「待てよ、なんで逃げんだよ!」
叫んでも、里宮は振り返ることなく走り続けた。
“放っておいて欲しい”。
まるでそう言われているかのようだった。
それでも俺は、今里宮と話せなければ全てが終わってしまうような気がして、ひたすらに足を動かした。
痛いくらいに感じる拒絶を無視して、やっとの思いで里宮の腕を掴む。
意外にも、里宮はピタリと動きを止めた。
誰もいない廊下に、2人の荒い息の音が響く。
その時、里宮の肩が細かく震え出した。
「里宮……?」
俺が顔を覗き込むより先に、里宮は泣き出しそうな顔で振り返った。
ポニーテールの髪が軽そうに宙を舞う。
「だって、高津が、私のこと嫌いだって言うから……っ」
とうとう里宮の瞳から涙が溢れ出し、その声が震える。
俺は思わず目を見開いていた。
里宮の言葉が理解できない。
混乱する頭の中で、“嫌い”という一言だけがやけに大きく響いた。
……なんだよ、それ。
俺は、こんなに……。
こんなに、里宮のことが好きなのに。
そう思った瞬間、俺は思わず里宮の腕を引いていた。
小さな体が、よろけて腕の中にもたれかかる。
「好きだ!」
廊下中に響いた声が、今でも脳裏に残っている。
* * *
やってしまった……。
俺はまだ人気のない朝の教室で頭を抱えていた。
昨日からずっと、里宮のことで頭がいっぱいだった。
あれじゃあ、意味がない。
あんなこと言うつもりじゃなかったのに……。
『好きだ!』
恥ずかしすぎる言葉が頭をよぎる。
「うあぁ……」
思わず情けない呻き声をあげ、髪をくしゃくしゃに掻き乱す。
「消えたい……」
思わずそう呟いた時、ふと目の前の机に落ちる薄い影に気が付いた。
「おうおう、早まんなよ?」
突然聞こえたその声は、1年の頃からやけに聞き慣れた声で……。
「うわぁ!?」
思わず大声を上げて身体を起こすと、目の前に立っていた人影は「おお!?」とのけぞって後ろにあった机に腰を強打した。
ガンッと痛々しい音が教室中に響く。
「いってぇ!」
子供のような声を上げた教師に、思わず苦笑する。
「だ、大丈夫かよ岡田っち……」
呆れながら言うと、岡田っちは「いて〜」と涙目で腰をさすっていた。
「てか、岡田っちなんでこんな早いの?」
思わず、俺と岡田っち以外誰もいない教室を見回す。
電気すら点いていない教室は薄暗かった。
岡田っちはいつも本鈴が鳴ってから教室に入ってくる。
5分、10分遅れて来ることももはや日常だ。
そんな岡田っちが、何のために早朝の教室にいるのだろう。
疑問に思って尋ねると、岡田っちは「ちょっとな」と適当に誤魔化して、「それよりお前はどうしたんだよ」と聞いてきた。
思い切り話題を逸らされたが、なんだか言い返す気力もなくて俺は深いため息を吐いた。
「……別に。昨日に戻れたらなと思って」
言うと、岡田っちは「そりゃ無理だな!」と言い放って笑った。
俺だって、時間を戻せないことくらい分かってるけど……。
そんなにキッパリ言われると、ちょっとへこむ。
「昨日できなかったことは、今日やれば良いだろ。
お前は今“今日”にいるんだから」
珍しくそれっぽいことを言った岡田っちに、少し驚く。
「……じゃあ、昨日の失敗を消すには?」
言うと、岡田っちはニッと歯を見せて笑った。
「今日、それ以上のことをするしかねぇな」
“それ以上のこと”か……。
そんなんで、挽回できるんだろうか。
なんだか腑に落ちない俺の表情に気づいたのか、岡田っちは「上書きだよ、上書き〜」と頭を掻きながら付け足した。
相変わらず適当だな……。
そんなことを思って、俺は思わず笑っていた。
確かに、終わったことは変えられないし、岡田っちの言うとおり上書きするしかないのかもしれない。
「よくわかんねぇけど、とりあえず頑張れよ〜」
ひらひらと片手を振って教室を出ていく岡田っちを見送って、ふと疑問に思うことがあった。
結局、岡田っちは何をしに来てたんだ……?
教室に用があるんじゃなかったのか?
そんなことを考えていると、突然ガラッと教室のドアが開いた。
岡田っちが忘れ物でもしたのかと思い、何となしに振り返った俺は、思わず息が止まりそうになった。
「高津」
突然現れた里宮は、何事もなかったかのように声をかけてきた。
「岡田っちいなかった?」
「あ、えっと……さっき、出てった、けど……」
なんとか声を絞り出すが、途切れ途切れで情けない声になってしまった。……消えたい。
そんな俺の様子を気にすることなく、里宮はひとつため息を吐いて教室を出て行った。
遠ざかって行く足音が聞こえなくなり、教室が再び静寂に包まれる。
……里宮、普通だったな。
なんだか意識していた自分が馬鹿らしく思えて、全身の力が抜けた。
里宮が動揺してる姿は想像出来ないけど、流石に落ち着き過ぎだろ。
里宮はあの一言を、どういう意味で受け取っているんだろう。
このまま、俺が昨日のことを蒸し返さなければ、あの言葉はなかったことに出来るんだろうか。
今みたいに、何事もなかったかのように会話をして。
昨日のことは流されて、いつか、この気持ちもどこかに流れて。
俺の中の里宮が、“仲間”に戻っていく。
“尊敬できる存在”に戻っていく。
そこまで考えて俺は、絶対無理だな、と思った。




