70. 鷹の心情
雨。
雫の落ちる一定の音が教室中に響いていた。
どこか投げやりに発せられた里宮の言葉を思い出し、心臓がじくじくと痛んだ。
……どうして、こんなことになったんだろう。
高津 茜、17歳。
『高津には関係ない』
里宮のその一言が、ずっと脳内で再生され続けていた。
雷校バスケ部は、夏休みに開かれる“緊急練習試合”で勝てなければ廃部になってしまう。
対戦相手は、インターハイ優勝を決めたこともある超強豪校の南山根。
正直、雷校の力では足元にも及ばないだろう。
一番気になるのは、あのプリントに書かれていた名前のことだった。
“緊急練習試合”の提案者で、PTA会長の“黒沢”。
それを見た途端、嫌な予感が胸に広がった。
鋭い瞳を細めて笑う鷹の笑顔が浮かぶ。
……ただ、偶然同じ苗字なだけかもしれない。
出来れば、そう信じていたい。
昼休み、俺は川谷に事情を話して屋上へと向かった。
緊急練習試合と鷹のことを簡単に説明すると、川谷は驚きながらも了解してくれた。
部活の時にまた詳しく話すことを約束し、鷹の待つ屋上へ向かう。
途中、横切った教室の中に長野の姿を見つけた。
数日前に話した長野との会話が甦ってくる。
『やっぱり俺じゃわかんなかったよ』
ヘラッと笑ってそう言った長野は、どこか寂しそうだった。
朝礼前に里宮を中庭に連れ出したものの、詳しい話は聞けなかったらしい。
明らかに元気のない里宮のことが心配で、長野にも相談したのだが、やっぱり里宮はそう簡単には悩みを打ち明けてくれなかった。
それから、長野はしばらく中庭に行かないと言った。
友人の榊と一緒に昼食を取る約束をしたらしい。
本当のところはどうだか分からなかったが、俺はとりあえず頷いておいた。
そのまま少し立ち話をして、解散しようとした時、後ろから長野が俺を呼び止めた。
振り返ると、長野は気まずそうな顔を引っ込めて、呆れたように笑った。
『俺、すぐ失敗しちゃうからさ』
自虐的な言葉が虚しく鼓膜を震わせる。
『……もう、傷付けたくないんだよ』
珍しく弱気なことを言った長野に、俺は何も言ってやれなかった。
長野が“傷付けたくない”のは誰のことだったのか。
どうしてそんなことを言ったのか。
分からなかったけど、俺にはただ頷くことしか出来なかった。
長野があんなことを言ったのには、きっと何か理由があったんだろう。それを分かっているのに、どうにも出来ない自分を歯がゆく思う。
そんな中、里宮とも気まずくなってしまったし、追い討ちをかけるように“緊急練習試合”のことが知らされ、俺の頭はもうパンク寸前だった。
大きなため息を吐いて屋上のドアを開けると、じめっとした重い風が前髪を浮かせた。
顔を上げると、青いプラスチックベンチに座る鷹の姿が見えた。
軽く片手を上げる鷹に応えながら、ベンチに近づく。
「ほんとに中庭行かなくていいのかよ」
「うん。鷹と話したいことあったから」
素直にそう言って、呆れたように笑う鷹の隣に腰を下ろす。
正直、どう切り出して良いか分からなかった。
もし、緊急練習試合の提案者である“黒沢”が、鷹の親だとしたら。
その人のことを、俺はよく知っている。
その人の行動全てが、誰のためであるのかも。
「……PTA会長って、誰だか知ってる?」
遠回しに聞くような形になってしまったけど、それ以外に何と言えば良いのか分からなかった。
心臓の鼓動が早くなって行く。
祈るような思いで鷹の言葉を待っていると、鷹は「あぁ」と知ったような声を出した。
胸の中で膨らんでいた嫌な予感がより一層大きくなる。
「俺の父親だよ。“緊急練習試合”を提案したのもな」
なんでもないことのように、鷹はそう言った。
その口調から焦りや後ろめたさは感じられない。
むしろどこか楽しそうにすら聞こえた。
頭の中が真っ白になっていく。
「なんで……」
「“実力のない部活に金をかけるのは無駄だ”っていう意見で。表向きはな。……俺が頼んだんだよ。バスケ部を潰してくれって」
それは、聞きたくなかった言葉だった。
PTA会長の“黒沢”が鷹の父親だったとしても、緊急練習試合の提案に鷹が関わっているなんて思いたくなかった。
これは鷹の父親が勝手にやったことで、鷹の願望とは全く関係ないのだと。
そう、信じていたかった。
「茜は、今も俺のことを親友だと思ってるのか?」
唐突に話を変えた鷹に驚きつつも、俺はその目をしっかりと見返して言った。
「思ってるよ」
俺は、一度も鷹のことを嫌ったことなんてない。
あの悲劇が起こる前から、俺は変わらず鷹のことを親友だと思っている。
それは、紛れもない本心だった。
「……なんでだよ」
小さく言った鷹の表情は、暗い影に隠れてよく見えない。
「なんでって……」
「俺が、なんでこんなことしたのか分かるか?」
首を振ると、鷹は「お前のためだよ」と言った。
思わず「は?」という間抜けな声が漏れる。
俺のためなのに、俺の部活を廃部にしようとするのか? 俺の大切なものを壊すのか?
訳が分からない。そんなの、矛盾してる。
「“バスケ部を潰す”って言うより、お前と里宮たちの関係を壊してやろうと思ったんだよ。……お前に、信じることの無意味さを教えてやろうと思って」
そう言った鷹の目が、俺の方を向く。
どこまでも冷たく、色のない瞳が、俺の身体を硬直させた。
そんな俺を見て、鷹は取り繕うように笑顔を作った。
「だって、おかしいだろ。あの時あんだけ痛い思いしたのに、何同じこと繰り返そうとしてるんだよ。何で、裏切られるって分かんねぇんだよ。……あいつらは、いつか絶対に茜を傷つける」
「なんだよ、それ……」
鷹が、何を言っているのか分からなかった。
確かに俺は、あの時散々苦しんだ。
もう二度とあんな生活に戻りたくはないし、思い出したくもない。
……でも、あいつらは違う。
「あいつらは、そんな」
そんな奴らじゃない。そう言いかけた俺の声は、ガタンッと大きく響くベンチの音に遮られた。
驚いて顔を上げると、勢いよく立ち上がった鷹が、固く拳を握って全身を震わせていた。
「現に、“友達”だったはずの俺が裏切っただろ!」
叫びにも似た声が、薄暗い屋上に響く。
振り返った鷹の瞳は鋭く、血走っているようにさえ見えた。そんな鷹の姿を見るのは初めてで、俺はただ目を丸くすることしかできない。
「鷹……」
「分かってんのか!? 俺はお前を裏切ったんだぞ! 自分だけ助かって、逃げて、お前を見捨てたんだ! ……なのに、なんで怒んねぇんだよ! なんで笑ってんだよ!」
悲痛な叫び声が胸を締め付ける。
俺は、鷹に裏切られたなんて思ったことはない。
見捨てられたなんて思ったことはない。
苦しげに歪む鷹の表情が滲んでいく。
鷹がそんな風に思っていたなんて想像もしていなかった。
鷹の、本当の気持ちなんて。
……俺は、何も知らなかった。
「あいつらだけは違うって言うのか? そんなこと、本気で信じてんのか? 人間なんてみんな同じなんだよ!」
肩で息をする鷹の、歪んだ瞳には涙が浮かんでいた。
……そんなこと、俺だって全く考えなかったわけじゃない。
友達なんていらない。どうせ自分が傷つくだけだ。
あれからずっと、そう自分に言い聞かせてきたから。
初めて里宮に会った日だって、正直里宮のことを信じてなんかいなかった。
心を開かないように意識して、警戒していた。
あの時と同じ思いをしなくて済むように。
中学の時だって、仲良くなれそうなやつが1人もいなかったわけじゃない。話しかけてくれるやつもいた。
チームメイトも歩み寄ろうとしてくれていた。
でも俺は、その全てを拒んだ。
自ら独りでいることを選んだ。
そんな風に、これからもずっと独りで生きて行くんだと、当たり前のように思っていた。
人と関わることを、諦めていた。
……でも、里宮は。
みんなは、違った。
みんな、俺と同じだった。
同じように苦しんでいた。
俺の過去を知った上で、俺のことを受け入れてくれた。
『弱いから、強いんだ』
俺の手を、引いてくれた。
暗闇から連れ出してくれた。
……だから。
“こいつらなら、もう一度信じてみても良いかもしれない”って。
そう、思えたんだ。
繰り返しなんかじゃない。
あの時と同じになんて、なるはずがない。
そう、自信を持って言えるほど、俺はもうみんなのことを信じ切っている。
『人間なんてみんな同じなんだよ!』
……違うよ、鷹。
「茜」
いつもと変わらない声が聞こえて顔を上げると、目の前に立っていた鷹の顔からは表情が消えていた。
感情のない瞳が、真っ直ぐに俺を見つめる。
「誰のことも信じるな。……もちろん、俺のことも」
呟くように言った鷹は、鋭い目を細めて自虐的に微笑んだ。
いつまで経っても、虚しい声が頭にこびりついて離れなかった。




