66. 星の願い
「睡蓮」
ふいに名前を呼ばれ、スープを運んでいた手を止める。
顔を上げると、向かい合って座っていた父さんがじっと私を見つめていた。
「今日、帰り遅かったね。部活は休みじゃなかったっけ?」
優しい口調とは裏腹に、どこか試すような瞳が私を覗き込む。
今日は父さんが有給を取っている日だった。
……今日に限って。
「……自主練してた」
咄嗟に思い付いた言い訳をそのまま口にして、再びスプーンを持つ手を動かす。
小さな罪悪感が胸に広がって行くのが分かった。
喉元にまとわりつく黒いもやのようなそれを、温かいスープと共に飲み下し、父さんの顔色を伺う。
その時、手を止めたままだった父さんが固く唇を結んだのが分かった。
「どうして、嘘を吐くんだ?」
心臓が大きな音を立てる。
思わず「え?」という間抜けな声が溢れた。
父さんの口調は強く、全てを知っているかのようだった。
もしかして、と思った時には、父さんの言葉が続いていた。
「さっき学校から、倒れたって連絡が来て……私がどれだけ心配したか分かるか?」
怒ったような、悲しんでいるような声だった。
何も言えないまま手元に目を落とす。
辛そうな顔をした父さんを、見なくて済むように。
そんなのはズルいと分かっていても、再び顔を上げる気にはなれなかった。
きっともう、言い逃れは出来ないだろう。
固く唇を結び、父さんの声に耳を傾ける。
「体調が悪い日は休むことも大切だ。そういう時はちゃんと言いなさいって、いつも言っているだろう」
……昔、同じようなことを言われた時があった。
身体中熱くて、頭が痛くて、それでもたった1人で家を抜け出して走った。
ボロボロ涙を零しながらだだをこね続ける私を、珍しく強い口調で叱る。
私の両手を握るその手が、あまりに細くて、冷たくて。
……父さんも母さんも、私の気持ちなんてお構いなしに正しいことばかり言う。
まだ母さんが生きていた頃、熱を出して学校を休んだ日があった。私は父さんの目を盗んで家を抜け出し、病院に走った。
母さんは、入院していた。
『具合が悪い時は寝てなくちゃダメでしょ? ほら、父さんが迎えに来てくれたから……』
『嫌だ! 』
幼い私の声がすぐ耳元で響く。
まるで時間が戻ったかのように、その光景がハッキリと目に浮かぶ。
すぐそこに母さんがいるような気さえした。
『睡蓮!』
その時私は、初めて母さんの怒鳴り声を聞いた。
驚きで涙も止まり、目を丸くして母さんの顔を見つめる。
肩で息をする母さんは、怒っているのに今にも泣きそうな顔をしていた。
『お願い、睡蓮。ちゃんと自分を大切にして。睡蓮が泣いてたら、母さんも悲しい。痛い時は、ちゃんと父さんに言って。勝手に父さんから離れないで』
泣きそうな声で言う母さんの言葉も、本当は全部否定したかった。
何度だって“嫌だ”と叫んで母さんに縋り付きたかった。
でも、だけど、そうしたら母さんは、もっと困ってしまう。悲しんでしまう。
幼いながらにそう分かっていた私は、どうすることも出来ずにただ泣き続けた。
熱があるのに、勝手に家を抜け出したこと。
それが“悪いこと”だと、私も分かっていた。
分かっていたけど、走り出した足は止まらなかった。
“悪いこと”をしてでも、母さんに会いたかった。
力いっぱい抱きしめて欲しかった。
抱えきれないほど大きく膨れ上がった不安が、ひたすらに私の足を突き動かしたのだ。
泣き続けて、泣き疲れて、涙を拭う手の隙間に、薄く光る星が見えた。
お願いします。お願いします。
ちゃんといい子にします。父さんの言うことも全部聞きます。算数も頑張ります。にんじんも食べます。
だからお願い。
母さんを連れて行かないで。
「睡蓮」
父さんの声で、一気に現実に引き戻される。
視界は大きく歪み、滲んでいた。
強く唇を噛み、握りしめる手に力を込める。
微かに見える父さんは真剣な顔をしていた。
しっかり私と目を合わせて、長く間を取って。
大切なことを伝える時、いつも母さんがそうしたように。
「……もっと頼りなさい」
その声が、かつての母さんの声と重なる。
少し強い口調で言った父さんは、後ろめたさからか微かに目を細めた。その顔が寂しそうに歪むのを見て、私は気まずくなって目を逸らした。
結局、何も答えられない。
そんな私を咎めることなく、父さんはそれ以上何も言わなかった。
父さんがスープを食べ終え、席を立ってからも、私はそのまま動けずにいた。
……頼りなさいって父さんは言うけど、私にはやっぱり出来そうにない。
私は、父さんにあんな辛い顔をさせたい訳じゃない。
そんな顔をさせてまで、自分が救われたいなんて思えない。
高津も、五十嵐も、長野も、川谷も。
みんなの苦しむ顔なんて、絶対に見たくない。
『もっと頼りなさい』
「……無理だよ、父さん。……母さん」
呟いて、小さく息を吐く。
窓の外に目を向けると、空は暗く曇っていた。
星は、ひとつも見えなかった。




