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黒を被った弱者達  作者: 南波 晴夏
第2章
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65. 霞む色

目の前の景色が流れて行く。

楽しげに話しながら歩く生徒達をかき分け、時にはぶつかったりしながらも、速度を緩めず突っ走る。


ちょうど私が教室を出る頃に、B組の終礼も終わっていた。今日は部活がないからそのまま帰るにしても、まだ駅までは行っていないだろう。

このまま走って行けば追い付けるかもしれない。

そんなことを頭の隅で考えながら、必死に足を動かした。


やがて周りの生徒も霧がかかったように見えなくなり、一筋の道だけがハッキリと見えるようになる。

大した運動でもないのに、慌てているからかいつもより呼吸が乱れていた。


私は、自分でも驚くくらいに、焦っていた。

だから、人混みの中にその背中を見つけた時、考えるより先に声が出ていた。


「五十嵐!」


大声で呼び止めると、何人かの生徒が驚いた顔をして振り返った。その中に五十嵐の姿が見える。

やがて、私の大声に驚いた数人の生徒は、私達に訝しげな視線を向けてからまた歩き出した。


私に呼び止められるまま足を止めた五十嵐の近くまで駆け下りる。

五十嵐より二段上のところで立ち止まると、私が口を開くより先に、五十嵐が言った。


「どうしたんだよ」


そう言う五十嵐の声は自然で、私は少しホッとした。

……だからかもしれない。


「ちょっと話したいことあるんだけど」


全く躊躇せずに、私はそう口にしていた。


「……あー、悪い」


歯切れの悪い声。

一瞬にして、私の胸に嫌な予感が広がる。


「今急いでんだ。明日にして」


それだけ言うと、五十嵐はそのまま足早に階段を駆け降りて行った。

その後ろ姿があまりに早く離れて行くものだから、私は呆然とそれを見送るしかなかった。

私の悪い予感は、的中した。


目の前に誰もいなくなって、上履き特有の軽い足音が耳に響いて、私は開きかけていた唇を結んだ。

当たり前のように、五十嵐は私に相談してくれると思っていた。


黒沢に何か言われたのなら、真っ先に私に言って、事情を聞いて。

これまでもずっとそうだった。

五十嵐が私を避けたことなんて一度もなかった。


気付くと、私は俯いていて、視界には上履きと少し汚れた階段が映っていた。

行き場のない言葉を口の中で転がし、やがて飲み込む。


面白おかしく笑いながら階段を降りていく生徒たちが、遠い世界の存在のように思えた。

もう長いこと同じコートでバスケをしてきたはずの仲間が考えていることが、私にはどうにも分からなかった。


私は、分かっているようで何も分かっていなかった。

五十嵐のことも、みんなのことも。

全部を知った気でいたけど、そんなことはありえなくて。


最悪の事態が次々に浮かぶ。

今回ばかりは自分の想像力を呪った。


吐き出したため息が、思考を奪って行く。

重い頭ではそれ以上何も考えられそうになかった。

なんだか全身の力が抜けてしまったような気がして、手すりで体重を支えながら階段を降りていく。


本当に黒沢は、五十嵐を傷付けるようなことをしたのだろうか。

いや、今避けられたのは私だから、また私が何かしてしまったんだろうか。

今朝長野を傷付けたように。


五十嵐のことも、私が傷付けてしまったのだろうか。


もう、数分前の五十嵐がどんな表情をしていたのかすら思い出せなかった。

そこにどんな色が浮かんでいたのかも。


ふと、微かな違和感が胸に広がる。

五十嵐は、私の声に反応して、振り返って。

そこまで思い返した時、私は気が付いた。


私は初めから、五十嵐の表情なんて見えていなかった。


目を背けていた訳でも、顔を隠されていた訳でもない。

視界が曇って、五十嵐の顔も霞んで見えなかったんだ。


それに気づいた瞬間、辺りの光景が一瞬にして歪む。

薄い霧に覆われたかと思うと、白く見えていた廊下がチカチカと光り出す。

視界が回る。


方向感覚がなくなり、足の力が抜けたかと思うと、視界は既に黒く染まっていた。




* * *




眩しく光る蛍光灯。


目を開けて1番に見えたのは知らない天井だった。

どこまでも白い天井にはカーテンレールが取り付けられている。

そこから下がる薄いピンク色のカーテンが周囲を囲っていた。


とりあえずいつもより重い身体を起こすと、微かにふらつく感覚があった。

ふかふかのベッドに手をつき、ぼんやりとした頭で考える。


五十嵐を探して走って、その後ろ姿が遠ざかって、それから……。

記憶を辿ろうとしていると、カーテンの向こう側から小さな足音が聞こえた。


右側のカーテンが静かに開かれ、白衣を着た養護教諭の女がそっと顔を出した。

美山 沙織(みやま さおり)”と書かれたカードが胸元で揺れる。

私と目が合うと、美山は柔らかく目元を細めた。


「良かった。体調はどう?」


聞かれて、数秒固まってしまった。

上手く状況が飲み込めない。


「なんで」


掠れた声で呟くと、たったそれだけの一言で私の思考を察したのか、美山は言った。


「あなた、下駄箱前で倒れてたのよ。覚えてないの?」


呆れたように肩をすくめて微笑んだ美山は、「睡眠不足は良くないわよ」と付け足して少し怒った顔をした。

眉を下げ、軽く頬を膨らませるその表情は、怒っているというより困っているようにも見えた。


そういえば、最近あまり眠れてないんだった。

そのことを思い出し、私は美山の言葉を素直に受け取って小さく頷いた。


……目が覚めたら保健室、とか、すごいありがちなパターンだな。

そんなことを思っていると、美山が思い出したように手を打った。


「えぇ〜っと、誰だっけ。あ、そうそう、A組の高津くんが背負って来てくれたのよ。確か里宮さんと同じクラスよね?」


曇りのない笑顔で言葉を続ける美山に、私は無言で顎を引いた。

……高津。

このままじゃ、高津のことも守れない。

守るどころか、私が傷付けてしまう。


……そうなってしまう前に。


「里宮さん? 大丈夫?」


「……帰る」


自分でも聞き取ることが難しいくらいの声量で呟くと、美山は僅かに目を大きくした。

地獄耳だな、なんてくだらないことを思う。


「え、帰るって……ちょっと、里宮さん! 帰ったら一応病院行っときなさいよ!? 担任の先生には報告しておくからね!」


慌てたような美山の声から逃げるように、私は足早に保健室を出た。

後ろ手でドアを閉め、小さく息を吐く。

どれだけ眠っていたのかは分からないが、少しだけ頭が軽くなった気がした。


誰もいない昇降口を抜けて、曇り気味の空を見上げる。

湿っぽい風が、空中で私の髪を踊らせた。

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