63. 朝の中庭
身体が重い。
4階に続く階段の最後の1段を踏み付けると、思わず大きなため息が漏れた。
いつもはなんとも思わない階段が、今日はありえない程長く感じた。
鞄をかけ直し、重い足を引きずるようにしてリノリウムの廊下を歩いて行く。
あれから、あまり眠れない日が続いていた。
言いようのない不安が胸の奥にまとわりついている。
とうとう目の下に薄く隈が出来てしまい、今朝父さんにも心配されてしまった。
誰にも、余計な心配をかけたくなかったのに。
……みんなにも。
きっとそのうち、バレてしまう。
迷惑をかけてしまう。
高津はもう私の異変に気が付いていた。
どうにかしよう、と気持ちが焦るばかりで何も出来ないまま時間は過ぎて行く。
「里宮〜!」
突然聞こえたその声に、私は軽く身を震わせて振り返った。朝から元気で明るい声。
ちょんまげをぴょこぴょこと揺らし、軽く片手を上げて近寄って来たのは長野だった。
「なんだ、長野か」
「“なんだ”ってなんだよ! テンション低いな!」
「長野が高すぎるんだよ」
わざとらしくため息を吐くと、長野は不満そうに唇を尖らせた。
子供っぽい態度に呆れつつも、そんなやりとりに安心している自分がいる。
何の解決にはならなくても、今はただいつもどおりで居てくれる長野の存在がありがたかった。
「なぁ」
弾んだ声に顔を上げると、長野はいたずらっぽい笑みを浮かべて言った。
「今から中庭行かね?」
「は?」
予想外の提案に思わず間の抜けた声を出してしまう。
そんな私には目もくれず、長野はニコニコと機嫌良さそうに笑っている。
理由を聞こうと思って開いた口からは、呆れたような笑いが漏れただけだった。
理由なんて聞いたところで、どうせ行くことになるんだから意味もないだろう。
そう思って、私は「わかった」と短く答えて教室に鞄を置いてから長野の隣に並んだ。
「いやぁ、悪い天気だね!」
「良い天気みたいに言うな」
ベンチに座るなりそんなことを言った長野に素早く突っ込みを入れると、長野は満足したようにケラケラと笑った。
「最近こんな天気ばっかだよなぁ。もう梅雨だからしょーがないけど。まぁ、雨降らなかっただけまし……」
「長野」
調子良く話し出した声を遮ると、長野は暗い空から視線を外し、私の方に向き直った。
その目には、何かを察しているような色が滲んでいた。
「何か話したいことあったから、中庭まで来たんでしょ」
思い付いたことは思い付いた時に言う。
そんな性格の長野が、わざわざ場所を変えるなんていつもならありえないことなのだ。
きっと、ここでしか。
人がいないところでしか、話せない話なんだろう。
案の定長野は気まずそうに笑って、「あー、里宮さ」と目を逸らしがちに言ってから私の顔を覗き込むように首を傾けた。
「なんか、あった?」
そんな長野の声が、やけに優しく耳元に響く。
長野が私のことを聞いているのだと理解するのに少し時間がかかった。
てっきり長野の話だと思っていた私は、思わず目を丸くして固まってしまった。
そんな私を見て、長野が心配そうに眉を寄せる。
慌てて適当に誤魔化そうとすると、長野の珍しく真剣な瞳が私を射抜いた。
思わずぐっと言葉に詰まり、気まずくなって目を逸らす。
そんな私の様子を見た長野は、またいつもの調子に戻って言った。
「いや、最近元気ないっぽかったからさ〜。気になって」
「……別に、普通」
気にしなくていい。
逆に、気にされると困る。
黒沢が、長野にまで変なことを吹き込もうとするかもしれない。
「普通かぁ。まぁ、言いたくないんなら良いけどさ〜。何かあるなら、話聞くくらい俺にも出来るかもしんないじゃん」
いつもより少し静かで、それでも明るさを捨てない声が、私の中に心地良く響く。
きっと長野なりに気を使ってくれているのだろう。
私のことを、心配、してくれているのだろう。
そう思った時、胸の底に黒いもやが浮かんだような気がした。
どうしてだろう。
長野は、優しいのに。
私のことを思ってくれてるのに。
どうして、こんなに、胸がざわつくんだろう。
『何かあるなら、話聞くくらい俺にも出来るかもしんないじゃん』
……何も知らないままで。
私が、どんな思いでみんなのことを避けてるかなんて知らないくせに。
心配なんてしないでよ。
「長野にはわかんないよ」
吐き捨てるようにそう言って、前髪を掻き乱した。
当てつけのように大きなため息を吐く。
わかんないままでいいから。
心配も、気遣いもいらないから。
わかんないままでいてよ。
「それは」
呟くようなか細い声が聞こえた気がして顔を上げると、長野はいつもと変わらない笑顔を浮かべていた。
「それもそうだな! 俺に話したってなんも変わんないもんな〜!」
大きな声でそう言って笑う長野に、何も答えられずにいると、長野は突然私の頭を乱暴に掻き乱した。
「ちょっ」
「変なこと聞いてごめんな!」
それだけ言うと、長野は非常階段に続くドアを開けて中庭から出て行ってしまった。
全く、文句を言ってやろうと思ったのに。
小さく息を吐き、ぐしゃぐしゃになった髪を指でとかすと何回か引っかかる感覚があった。
「最悪」
髪が絡まったら邪魔になるから嫌なのに。
そんなことを考えて、思わず眉間にしわが寄る。
……でも、こんな気持ちになるのは乱れた髪のせいだけじゃない。
「……最悪、私」
自分で決めたことなのに、勝手に苛立って、長野に当たって。ほんとに、なにしてるんだろう。
また自然とため息が漏れ、黒く不気味な色をした空を見上げる。
ふと、さっきの長野の笑顔を思い出した。
私は、あんなこと言ったのに。
嫌な態度取ったのに。
それでも長野は、ずっと笑っていた。




