61. 朝を待つ
手のひらに吸い付くボール。
体育館中に響くドリブルの音。
私を安心させてくれるのはこの時間だけだった。
バスケをしている時だけは、嫌なことも全部忘れられる。
時間も忘れて走り続けていた私は、休憩を知らせる笛の音でやっと我に帰った。
体育館の隅に座り、家で作ってきたスポーツドリンクを飲む。
その時、私と入れ替わりでコートに入る川谷の姿が目に映った。
『関わらない方が良いって言われたんだよ』
数十分前の会話を思い出し、思わず顔をしかめる。
黒沢が何を企んでいるのか、正直まだわからない。
もちろん、最終的な黒沢の目的は高津の“仲間”、つまり私たちの仲を壊すことだ。
高津の中に裏切られる恐怖を植え付け、誰のことも信じられなくする。
そうすることで、高津を新たな傷から“救う”。
……いくら考えても、私にはそれが正しいことだとは思えなかった。ねじ曲がった正義の思考に虫唾が走る。
兎にも角にも、黒沢の目的は分かっている。
肝心なのは、黒沢がそれを実現させるために何をするつもりなのかだ。
黒沢はあの時、『突然現れた転校生の言葉なんて誰も信じない』と言っていた。
……だから私に、“高津がいじめられていたことを広めろ”と言った。
じゃあなんで、黒沢は川谷にあんなことを言った?
川谷が黒沢の言うことを真に受ける筈がない。
実際、川谷は黒沢の存在を怪しんでいた。
いきなり現れて、友達のことを “関わらない方が良い”なんて言われたら、もちろん不快に思うだろう。信じる筈がない。
それを、黒沢も分かっていた筈だ。
考えても考えても、それらしい答えは出てこない。
黒沢の企みがわからない。
片手で目元を覆うと、思わず大きなため息が口から漏れた。
これからもきっと、黒沢は私たちに付きまとい続ける。
私たちの仲が壊れて、高津の周りに誰も居なくなるまで。
黒沢の不敵な笑みが浮かび、もしかしたら本当にそんな日が来てしまうのかもしれない、と一瞬考えて、私は思い切り頭を振ってネガティブな思考を追いやった。
そんな自分が情けなくて、また大きな息を吐く。
これからも、 黒沢が仕掛けてくる罠を1つ1つ潰して行くしかないんだろうか。
そこまで考えたところで、私は顔を上げた。
誰かの足音がすぐそこで聞こえたからだ。
「里宮、もう休憩終わるって。体調悪いなら休んでていいって坂上先輩が言ってたけど、どうする?」
いつもより少し優しい口調で、腰を屈めてそう言ったのは高津だった。
その顔をぼぅっと眺めて、ふわふわした頭に少しずつ入ってくる言葉を並べて行く。
しばらくしてやっと高津の言葉を理解し、私が声を出す前に、高津が再び口を開いた。
「おーい、大丈夫か? 里宮最近変だぞ。なんかあったのか?」
私の顔の前で手を振りながら、高津は見るからに不安げな表情を浮かべていた。
そんな高津を見て、本当に何も知らないんだなと思った。
当たり前のことなのに。
私は無言で首を振って立ち上がった。
少しよろけて目の前がチカチカしたけど、すぐに治った。
コートに入って、ボールに触って、走って。
早くバスケがしたい。
早く、嫌なこと全部忘れたい。
朦朧とした頭でそんなことを考えながら、私は出されたパスを受け取った。
ボールをついて走り出して、もうそこからは覚えていない。
* * *
「最低だな」
一瞬、何を言われたのか本気でわからなかった。
いつも笑っていた筈の瞳には憎しみの色が浮かんでいる。
そこに立っていたのは、もう、私の知ってる高津じゃなかった。
否定したいのに、ちゃんと話をしたいのに、強張った喉元からは何も言葉が出てこない。
何か言わないと。でも、何を?
私は何を言えばいい?
今更もう、何を言ったって……。
「だから言っただろ」
歌うようにそう言った口が、ニタァっと不気味に笑う。
黒い影に隠れて目元は見えない。
音もなく近づいて来る人影に気づきながらも、金縛りにあってしまったかのように身体が動かない。
心臓の音ばかりやけに大きく響いている。
その口が再び開きかけた時、パッと視界が真っ暗になった。
「っ!」
目を見開き、一番に見えたのは暗闇だった。
瞳だけ動かしてあたりを見回し、そこが自室のベッドの中だと気づくのにしばらく時間がかかった。
荒い呼吸と暴れる心臓の音だけが耳元で大きく響く。
震える手で胸を抑え、もう片方の手で肩を抱く。
しばらく深呼吸を繰り返して少し落ち着くと、微かに震えの残る手で枕元のスマホに手を伸ばす。
やけに眩しい光に思わず目を細め、画面の明るさを一番暗くしてから時刻を確認する。
そこには2:13の数字が表示されていた。
私はゆっくりと身体を起こし、スマホを置いて両手で顔を覆った。
……怖かった。
今までに見たこともない顔をした高津が、その瞳が、目に焼き付いて離れない。
夢の中の私は相当追い詰められていた。
優しい高津があんなことを言う筈がないのに、私はどうして怖がっているんだろう。
そう思った時、私は俯いていた顔を上げた。
……違う。この恐怖は高津のせいじゃない。
私が本当に恐れているのは、その後に現れたあの人影だ。
夢の中で顔は見えなかったが、私にはそれが誰だか分かっている。
あの不気味な笑い顔も、楽しそうに話す口調も、本当はずっと怖かった。
しんと静まり返った部屋を見回し、私は大きなため息を吐く。
それからまた眠れる筈もなく、私はベッドから起き上がって部屋の電気をつけた。
少しだけ眩しかったけれど、暗闇から抜け出せたことで自然と肩の力が抜ける。
それから私はベッドに戻ることなく窓の外が明るくなるのを待った。




