57. 迫り来る闇
これからも、みんなと過ごす何気ない日々が続いて行くと思っていた。
変わらない生活の中に黒沢が加わって、高津の笑顔がもっと増えて、他のみんなとも打ち解けて。
そんな未来を当たり前のように思い浮かべていた。
……しかしそれが、訪れる筈のない未来だったことを、私は“あの時”思い知らされた。
* * *
里宮 睡蓮、16歳。
2年生になって少し経ち、それぞれ生活が落ち着いてきたような気がする。
川谷に誤解されていた高津もなんとか誤解を解き、川谷と五十嵐が晴れて“彼女持ち”となった。
長野はよくわからないが、なんだか吹っ切れたような顔をしていた。頭の方は大丈夫らしい(病的な意味で)。
……そう、平凡な日々が戻って来たと思っていた。
「よぉ」
放課後、解放されている屋上で軽く片手を上げた黒沢は、感情の見えない不気味な笑い方をした。
昼間、高津と話していた時とは別人のようだ。
「色々面倒だから、単刀直入に言う。茜の“友達”を辞めろ。……今すぐにな」
予想外の言葉に、私は思わず大きく目を見開いた。
こいつは一体、何を考えているんだ?
いつもと変わらず、青い空。
眠い目をこすりながら、特にすることもなく窓の外を眺めていた。
そういえば、もうすぐ梅雨に入るんだっけ。
こんな風に快晴の空を見るのが、珍しいことになって行くんだろうか。
考えていたのは、そんなくだらないことくらいで。
「黒沢 鷹です。よろしくお願いします」
変わらない日常、ではなくなったけれど、特に興味を引かれることはなかった。
転入生、といっても、部活が同じになったりしない限りは言葉を交わすこともないだろうと思った。
でも、あの言葉を聞いた瞬間に、私の中で広がり始めていた“黒沢”という人間の印象は一気に変わった。
高津の、“幼馴染”。
その単語に、思わず過剰に反応してしまった。
頭の中を、1年前高津が話してくれた“過去”が流れて行く。
思うことはいくつもあった。聞きたいことも、言いたいことも。でも、高津は何も言わないで欲しいと言った。そう合図した。
だから私は、口から溢れそうになったいくつもの言葉を飲み込んで、“ただの転入生”として黒沢に接した。
……それなのに。
その後、黒沢は私だけに聞こえるように言った。
『話したいことがある』と。
なんとなく、嫌な予感はしていた。
本当に、なんとなく、だけど。
根拠なんてなかったけど。
できれば、その“なんとなく”が思い違いであって欲しいと願ったが、そんな祈りにも似た願いはことごとく砕け散った。
「俺と茜が幼馴染ってことは、さっき言ったよな」
『友達を辞めろ』なんてことを言った後、平然と話を続けた黒沢に、私は戸惑いながらも小さく頷いた。
私の反応を確認した黒沢は満足そうな顔をして何度か頷く。
「じゃあ、茜がいじめられてたってこと、知ってるか?」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中でカチッと音を立てて何かが繋がったような気がした。
やっぱり、と思った。
高津がいじめられるようになったのは、元々いじめられていた幼馴染が転校してからだと聞いたことがある。
昼間の高津の態度を見て予想はしていたが、それが今確信に変わった。
きっと黒沢が、その“幼馴染”なんだろう。
私の表情から全てを察したのか、黒沢は呆れたように自虐的な笑みを浮かべた。
「そうだよ。茜が傷ついたのは、俺のせいだ」
やけに虚しく響いたその言葉が、心臓を締め付けていくようだった。苦しそうな表情で、黒沢は淡々と語り続ける。
「あの時俺は茜を裏切って逃げた。そのせいで茜はいじめられて、中学でも“楽しい学校生活”なんて送れなかった。……それなのに、高校になって、帰ってきたらさ」
一度言葉を切った黒沢が、隠すように片手で目元を覆う。
「笑ってんじゃん。お前らみたいな友達もできて、部活やって、仲間に囲まれて笑ってんじゃん。……あんなに苦しい思いしたってのに、何も学んでねぇんだよ」
小さく息を吐いて、顔を伏せる。黒沢の声は今にも泣き出しそうなほど震えていた。
「だから……」
呟くような声と共に、ゆっくりと顔を上げた黒沢を見て、私は自分の頬が引きつっていくのがわかった。
そこに浮かんでいた表情が、想像していた物とあまりに掛け離れていたからだ。
黒沢は、苦しみでもなく悲しみでもなく、何かを企んでいるような不気味な笑みを浮かべていた。
「あいつの仲間を、壊してやるんだよ」
一瞬、黒沢が何を言っているのか理解できなかった。
聞こえてきた単語が、バラバラになって頭の中で踊る。
……“仲間”。“壊す”。
その2つが重なった瞬間、脳裏にみんなの笑顔が浮かんだ。そして、次々とその笑顔が崩れて、表情が消えて、涙が頬を伝って……。
そこまで想像したところで、突然襲ってきた胸の痛みに、私は顔を顰めて心臓を抑えた。
「茜が、これ以上傷付かないようにするんだ」
呟くように言った黒沢に、私は思わず目を見開いた。
その言葉が、先程の言葉と矛盾している気がした。
高津の仲間を壊すことが黒沢にとっての正義だったとしても、高津にとっては毒でしかない。
下手をすれば、高津は唯一の幼馴染までもを失ってしまうことになる。
そう思った瞬間、考えるより先に言葉が出ていた。
「ふざけんな」
口から溢れた声は、思わず笑ってしまいそうになるほど震えていた。
「そんなこと言って、結局は自分よりも恵まれた環境にいる高津が羨ましいだけだろ。もちろん誰かといることで傷付くことはあるかもしれないけど、だからって無理矢理引き剥がされたらもっと傷付くに決まってる」
声を絞り出して鋭く睨み付けるが、貼り付けられたような黒沢の笑みが崩れることはなかった。
その口から、呆れたような、馬鹿にしたような溜息が漏れる。
「なぁ。失うのと裏切られるの、どっちが苦しいと思う?」
ドクン、と、大きく心臓の跳ねる音がした。
『ごめんね、睡蓮』
『あの子は大丈夫よ。すっかり私に懐いてるから』
『里宮さんの友達なんてやめた方がいいよ』
「誰かを失って、傷ついて、それでもいつかは前を向ける。でも裏切られた傷は一生消えない。
裏切られないためには、初めから誰のことも信じないようにするしかないんだよ」
そう言って黒沢は、笑っているのか泣いているのか分からないような顔をした。
黒沢の言葉を聞いている間も、私の心臓は落ち着くことなく激しく脈を打っていた。
……母さんを失った。彩にも、阜にも裏切られた。
『前を向ける』なんて、そんな簡単に言って欲しくはない。
……そうだ。失うのも、裏切られるのも、どっちも苦しい。死んでしまいそうになるほど。
そんなこと、私が一番わかってる。
固く拳を握りしめて、深く息を吸い込み、そして吐き出す。さっきまで暴れていた心臓の音が嘘のように静かになる。
私は乾いた唇を舐め、口角を上げた。
「やれるもんならやってみろよ。私たちはそんな簡単に壊れない」
力強く言うと、僅かながらも黒沢の表情が歪むのが分かった。
「なめんなよ」
勝ち誇ったような笑みを浮かべて、私は身を翻す。
静かに舞い上がった風が、私の髪をふわりと浮かせた。




