52. 名前を付ける前に摘み取って
今までの記憶が鮮明に思い出される。
まるで忘れていたことが嘘だったかのように、当たり前にくるみさんの存在を認識することができた。
「竜くん、大丈ーー……」
慌てて駆け寄り、そう言いかけたくるみさんは、ハッとした表情で言葉を止めた。
たぶん、俺の頬を流れる涙を見て。
「……くるみさん」
名前を呼ぶと、くるみさんは一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐに俺の記憶が戻ったことを察して開きかけていた口を閉じた。
猫のように大きな目が真っ直ぐに俺を見つめる。
まだ耳の奥で微かにあの音が響いていた。
今まで考えていたことが、脳を貫くような音と共に頭の中で混ざり合う。
ぐちゃぐちゃで黒い感情が心臓を蝕んでいくような感覚を覚えた。
……ずっと言いたかった。誰かに知って欲しかった。
堪えていた言葉が喉元を迫り上がる。
震えた唇が発した声は、自分でも驚くほど小さかった。
「……寂しい」
くるみさんの顔を見ないまま、呟くようにそう言った。言葉にした瞬間、自分の感情が鮮明に浮かび上がってきた気がした。
……そうだ。
本当はずっと、寂しくて寂しくて仕方がなかった。
ばーちゃんがいなくなって、充がいなくなって、独りでいることにも慣れたつもりだった。
ふと寂しくなることがあったとしても、馬鹿な俺にはそんなことを言う資格なんてないから。
隠して。せめて誰の迷惑にもならないように。
誰のことも傷付けないように。
そんな簡単なことが、俺にはどうにも難しかった。
いつだって知らない間に誰かを傷付ける。
どれだけ後悔したって、傷付けてしまった事実は消えないのに。
俺は今まで溜め込んできた言葉を吐き出すように声を絞り出した。
その全てを、くるみさんは黙って聞いていてくれた。
俺の言葉が切れると、くるみさんは語りかけるように優しい声で「大丈夫だよ」と言った。
顔をあげると、くるみさんは真剣な表情で小さく頷いた。
「竜くんは独りじゃないよ。御両親がいて、充がいて、私もいる。友達だってたくさんいるでしょう?」
くるみさんが優しくそう言ったのを聞いて、俺は力なく首を振った。
それでもどこか虚しいんだ。
どれだけ楽しくたって、ふとした時にどうしようもなく苦しくなるんだ。
どうしようもなく独りなんだ。
「……竜くんの友達は、みんな竜くんをただの馬鹿だと思ってるの? 本当にそう思うの?」
俺は思わず目を見開いた。
くるみさんが発したその言葉が、頭の中で大きな音を立てて弾ける。
……友達。
高津、里宮、五十嵐、川谷。
みんな、俺が弱くても馬鹿でも許してくれた。
あいつらは、一度だってこんな俺を見捨てたことはなかった。真剣に話したら、真剣に聞いてくれた。
いつも、心配してくれてた。
「……違う」
違う。違う。違う。全部違う。
俺は独りなんかじゃない。
あいつらが居てくれる。いつだって、そばに居てくれた。それなのに、今まで散々救われてきたくせに。
なにが“独り”だ。
ボロボロと涙をこぼす俺を見て、くるみさんは静かに微笑んだ。
「帰ろっか」
そう言って立ち上がったくるみさんは当たり前のように手をさしのべた。
その姿が、俺にはとても輝いて見えた。
こんな俺にも対等に接し、真剣に話を聞いてくれる人があいつら以外にも現れるなんて思ってもみなかった。
そっとくるみさんの手を取り、胸に芽生え始めていた感情を摘み取る。
“これ”がなんだったのか、いつか大人になった俺は呆れ笑いを浮かべるかもしれない。
「くるみさん、結婚おめでとうございます」
涙を拭って笑顔でそう言うと、くるみさんは目を細めて幸せそうに笑った。
「ありがとう」
……そして、数日後。
くるみさんは俺の“お義姉さん”になったのだった。
* * *
どうして、ちゃんと答えてあげなかったのだろう。
ちゃんと話してあげなかったのだろう。
こんなのは初めてで、どうしたらいいのかわからない。
『好き……です』
昨日の出来事を思い浮かべながら、高津 茜は裏庭へと歩いて行った。




