51. 追憶の中
「竜〜、ごはん出来た〜」
「はぁ〜い」
一階から充の声が聞こえて、自分の部屋にいた俺は大きな声で返事をした。
こんなやりとりも、明日充とくるみさんが帰ってしまえば簡単に終わってしまう。
またいつも通りの日常に戻るだけなのに、この一週間が楽しすぎたせいか静かな家を想像するととてつもなく寂しい気持ちになる。
いつもはそれが普通だったのに。
『いっつもヘラヘラしやがって』
……学校でも、今までは普通に笑えてたのに。
極力難しいことには首を突っ込まず、程良い距離で。
『長野ひでー』
『気持ち悪ぃんだよ』
頭の中に張り付いていた言葉が再生され、心臓がズキンと音を立てる。
あぁ、嫌だな。こんなことで傷ついたりして。
俺の方がもっと、知らない間に色んな人を傷付けてきたかもしれないのに。
ふと顔をあげると、今まで接した人達の顔が次々に浮かんできた。俺は大きなため息を吐いて立ち上がる。
こんなこと考えたって、キリがない。
本当のことなんて分からない。
いちいち気にしてたら生活できない。
……そんなこと、分かってるけど。
それでも不安なんだ。
気づかないうちに誰かを傷つけてたらどうしようって。
そう考えると止まらなくなる。
何もかも自分のせいみたいに思えてきて。
でも、それでも、俺はズルくて。
誰かを傷つけないために一人でいる勇気なんて持てなかった。
独りは怖くて、暗くて、寒くて。
寂しくてしょうがなくて。
それでも、いつだって、そう。
傷つけていい人なんていないのに。
『ガタッ』
……あれ? 俺今、なにしてんだ?
額に手を当てたその時、迫って来ている階段を虚ろな目が捉えていた。
声を出す暇もなく、薄暗い階段が俺を飲み込むように大きく口を開けた気がした。
何がなんだかわからないうちに、ドタンッと鈍い床の音がしたかと思うと、頭に爆音が鳴り響いた。
思わず頭を抱えて耳を塞ぐ。
ありえないくらいの爆音にかき消されていく意識の中、充の声が微かに聞こえた気がした。
* * *
「……ちゃん」
どこか懐かしく、柔らかい声。
ガバッと体を起こすと、真っ白な世界に白髪の髪を揺らして立っている人影が見えた。
……ずっと、会いたかった。
「ばーちゃん!」
大声で呼ぶと、ばーちゃんは目を細めて微笑んだ。
いつも、寂しい時に思い出すのはばーちゃんの姿だった。
何年経っても、ばーちゃんの腕の中が恋しくて。
ずっと会いたかった。ずっと寂しかった。
ずっと、抱きしめて欲しかった。
立ち上がると、ばーちゃんはゆっくりと俺の目の前まで歩いてきて、ずっと恋しかったその手を伸ばした。
……一瞬、抱きしめてくれるのかと思った。
気づくと、ばーちゃんは俺の動きを止めるように両手を突き出していた。
悲しげに、何かに困っているように眉を寄せて切なく微笑む。
そして震えた声で、小さく言った。
「まだ、ダメだよぉ」
次の瞬間、ばーちゃんは伸ばしていた手で俺の胸を押した。その反動で、ふわりと軽い体が後ろ向きに倒れて落ちて行く。
「嫌だ、ばーちゃん……! なんで……っ」
発した声が聞こえているのかいないのか、ばーちゃんはなにも言わずに俺を見ていた。
儚げな表情のまま微笑むばーちゃんの姿がどんどん遠くなっていく。
伸ばした手では何も掴めない。
風を切るような音だけが頭の中を満たしていく。
“落ちて行く”感覚に襲われながら、俺はギュッと目を瞑って心の中で唱え続けた。
いかないで。いかないで。いかないで。
「竜くん」
まぶたが重い。今、何時だ? 眠い……。
「竜くん」
うるさいな。誰の声だ?
誰の……。
ハッと目を覚ました俺に、金髪のショートカットを揺らしながら話しかける人影。
「あ、起きた? よかったぁ。大丈夫?」
心配そうに俺の顔を覗き込んだあと、廊下に顔を出して誰かを呼ぶ。
俺は震える手でベッドのシーツを握った。
ここは、どこだ? 病院?
いや、そんなことより……。
「誰、ですか」
絞り出すように言うと、その人は勢いよく振り返って猫のように大きな目をさらに大きく見開いた。
* * *
「息子さんは部分的に記憶を失くしていると思われます」
医者はそう言ってメガネの位置を直した。
『記憶を失くしている』……?
俺が……?
医者の言ったことが信じられず眉をひそめる俺に、充が優しい声で問いかけた。
「竜、この人のことわからないか?」
充が肩に手を置いた女の人は、不安そうな目で俺を見た。
金髪のショートカット。猫のように大きな目。
その姿をどれだけ見つめても、初めて会った人にしか思えなかった。
「ごめん。わかんない、です」
俺が正直にそう言うと、名前も知らないその人は少し下を向いた。
「竜、この人は……」と言いかけた充の声を、その人が遮る。
「私、石上 くるみ。充と付き合ってて、結婚することになったの」
「は……!?」
俺が混乱しているのにも御構い無しに、石上 くるみと名乗ったその人は話を続けた。
「一週間前から、挨拶に来てて。さっき、竜くん階段から落ちたんだよ」
階段から……?
何があったんだ、俺。ダサすぎて笑える。
……いや、全然笑える状況じゃないんだけど。
「とりあえず……ほんとは明日帰る予定だったんだけど、こんな状況で竜を一人にするわけにいかないし……もう少し先に伸ばすよ」
充がそう言ったのを聞いて、俺は思わず部屋にいた全員の顔色を伺う。
両親も、充も、充の彼女も、皆暗い顔をしていた。
……俺のせいで。
「竜!?」
充の驚いたような声が後ろから聞こえる。
俺は思わずその場から逃げ出していた。
なにもできない、馬鹿で空気も読めない失敗作の俺は。
せめて笑顔でいなきゃ。
迷惑だけはかけないようにしなきゃ。
そう、思ってたのに。
「竜くん!」
振り向くと、金髪の髪をなびかせて追いかけてきていたのは充の彼女だった。
「待って! 前ーー……」
俺を引き止めるように伸ばされた手。慌てたような表情。異変に気づいて言われたとおり前を向くと、目の前に白い壁が迫ってきていた。
『ゴンッ』
痛々しい音が廊下中に響く。強く打った額に手を当てた瞬間、今までに聞いたことがないくらいの爆音が頭の中を満たした。
『長野ひでー』
『“馬鹿は馬鹿なりに、馬鹿力みせてやれ”ってね!』
『いっつもヘラヘラしやがって』
『まだ、ダメだよぉ』
色々な人の言葉が次々に浮かんでは消えていく。見覚えのあるシーンが流れるように過ぎていく。
思わずその場に座り込み、頭を抱えながら、渦のようなものに襲われている感覚を覚えた。
「大丈夫!?」
ゆっくりと顔を上げ、慌てて駆けつけたその人の顔をしっかりと見る。
『よろしくね、竜くん』
そうだ。
今目の前で、心配そうな顔をしてる、この人は。
くるみさんだ。




