50. 馬鹿は馬鹿なりに
いつもどおり退屈な授業が終わり、部活の時間になった。
俺は急いで体育館へ向かったが、先輩たちが揃っていないのか練習はまだ始まっていなかった。
こんな時、俺たちはいつも体育館の隅で適当に話をしながら時間を潰しているのだが、今日はやけに騒がしかった。
特に、高津が。
「五十嵐! 身長! 伸びた!」
嬉しそうにそう言った高津に、そんなぐんぐん伸びてもしょうがなくね? と心の中で毒を吐く。
まぁ、バスケでは背高い方が有利か……。
そんなことを考えていると、高津の自信満々の声が飛んできた。
「180センチ!」
その驚きの身長に、俺は思わず「え!」と飛び上がった。その声が川谷と重なる。
見てみると川谷は面白いくらい驚いた顔をしていた。
「長野は?」と聞いてくる高津に、なんとなく目をそらす。
「176……」
そう口にした瞬間、川谷は先程の驚いた顔を今度は俺に向けた。
「裏切り者ぉ……!」
喚きながら縋り付いてくる川谷に、俺はただ苦笑いを浮かべていた。
* * *
「ただいまぁ」
ドアを開けて軽く声をかけると、奥から「おかえり」という家族の声が聞こえた。
些細なことに感動しつつも、もうすぐこんな生活も終わるんだろうな、と少し寂しい気持ちになる。
階段を上り、自分の部屋に向かってカバンを投げると、中に入っていた教科書などがボスッと濁った音を立てた。
「こら、大切に使えよー」
聞き慣れたその声に振り返ると、部屋の前に充が立っていた。
「へーい」と適当に返事をすると、充は「ほんとにわかってんのかよ」と呆れたように笑った。
適当に投げたせいで変な形になっているカバンを直すと、「竜、ちょっと」と充が手招きをしてきた。
首を傾げつつも、言われるがまま充に近づく。
「俺たち明後日には帰るんだけど、父さんと母さん俺たちがいる間はずっと仕事早めに終わらせてたから、俺たちが帰ったらまた忙しくなるかもしれないんだけど……ごめんな」
申し訳なさそうに眉をひそめる充に、なんとなく居心地の悪さを感じる。
「別に、充のせいじゃないじゃん」
短く言うと、充は「ありがとな」と肩をすくめて笑った。
そんなこと言われても……。
俺は何もしてないじゃん。
そう口にしようかとも思ったけど、とりあえず素直に頷いておいた。
充が階段を降りていくのを見て、俺は部屋に戻った。
部屋の隅に置かれたカバンを見た瞬間に気分が沈む。
勉強、提出物、テスト。
嫌なことばかりが頭に浮かんで窒息しそうだった。
「竜くん」
突然聞こえたその声に慌てて振り返ると、今度はそこにくるみさんが立っていた。
「ね、勉強教えてあげよっか」
上機嫌にそう言ったくるみさんに、俺は思わず顔をしかめた。
なんだよ、自分のこと馬鹿とか言ってたくせに、勉強好きなんじゃん。
結局、くるみさんも充と同じように頭が良いんだろう。俺とは違って。
どうしようもない虚しさが胸に広がり、なんだか裏切られたような気持ちになった。
「遠慮しときまーす。俺、ちょー馬鹿なんで」
上機嫌な声でふざけたようにそう言ってくるみさんに背を向ける。
昨日はとても近くに感じたくるみさんの存在が、今ではずっと遠く感じた。
「ねぇ」
振り返ると、くるみさんはほんの少し首を傾けて悲しげに目を細めた。
「馬鹿なの、辛い?」
優しく響くその言葉に、俺は思わずぐっと言葉に詰まった。
そんなの、辛いに決まってる。
俺だって、みんなみたいに普通の頭脳が欲しい。
勉強できるようになりたい。勉強好きになりたい。
でも無理だった。
本気で頑張ってみた時だって、どれだけやったって変わらなかった。
いつもどおり最悪の点数で、勉強したことすら誰にも気づいてもらえなかった。
なんで、そんな、全部わかったような顔するんだよ。
「辛くたって、変われないんだからどうしようもないじゃないですか」
噛み付くように言うと、くるみさんは「そっか」と静かに呟いた。
まずい。そう思ったのも束の間、くるみさんは突然勢いよく顔を上げた。
その顔には、昨日と同じような笑顔が浮かんでいた。
「やっぱり、竜くんは私に似てるね! 私もね、変われないんだからしょうがないでしょ、って思ってた! それで開き直って、いっつも自分に言い聞かせてた」
くるみさんはニカッと歯を見せて笑った。
「“馬鹿は馬鹿なりに、馬鹿力みせてやれ”ってね!」
自分の二の腕を軽く叩いてそう言ったくるみさんに、気づくと俺は曖昧に笑っていた。
『そのままでいい』と許すようなくるみさんの言葉を素直に受け止める自分と、あんたに何が分かるんだと噛み付く自分がいた。
もう、どっちが正解なのかわからなくなっていた。
* * *
このままずっと、ここにいてくれればいいのにな。
俺が行く時は、「行ってらっしゃい」って言って。
俺が帰る時は、「おかえり」って言って。
それだけでいいよ。もうほんとに、それだけで。
『おかえり、竜』
その言葉を、毎日聞けたなら良いのになぁ。
「……野、長野!」
「ふぇ?」
何かで頭をポンと叩かれた感覚がして目を覚ます。
顔をあげると、目の前に筒状に丸めた教科書を持ったよっしーが立っていた。
「一番前の席で寝るとはいい度胸だな! いくら補習参加してたって寝てたら成績救ってやれないからな!」
全く、と大きな溜息を吐いたよっしーは教卓の上に目を落として「あ」と声を零した。
「ちょっと職員室にプリント取ってくるから、お前ら静かにしてろよ!」
そう言ってよっしーが教室を出ていくと、教室は案の定うるさくなった。
大きなあくびをしてまた腕の中に顔を埋めようとした、その時。
「おい」という大きな声が教室中に響いた。
その低い声に、誰もが体を小さく縮める。
「うわ、榊じゃん」
「こえー」
周りからヒソヒソと話す声が聞こえてくる。
いわゆる、“不良”ってやつですか?
ぽかんと口を開けていると、榊という男は窓際に座っていた男子を思いっきり睨みつけた。
「うるせぇんだよ。調子乗ってんのか」
いやこっわ。
めっちゃ睨むじゃん。
ガタイのいい巨大男の怒鳴り声に、誰もが気まずい顔をして目を逸らした。
教室の空気が重くなっていく。
「聞いてんのかよ!」
更に大きな声が鼓膜を揺らし、これはさすがにやばいな、と思うと同時に立ち上がっていた。
榊は見るからに結構怒っていて、どこにそんな激おこポイントあったんだよ、と思った。
「あのー、榊……くんさぁ、一旦落ち着こ?」
榊の目の前に手を出して言うと、「お前に関係ねぇだろ」という低い声が返ってきた。
「いや、一応同じ授業受けてるんだし、関係はありますよ」
なるべく火に油を注がないように言葉を選ぶが、変な敬語になって逆に煽ってるみたいだな、と自分で思った。
「はぁ? 何言ってんだお前。いっつもヘラヘラしやがって気持ち悪ぃんだよ」
わぁ、すげぇトバッチリ。
酷い言われようだな。
……まぁ、ほんとにその通りなんだけど。
「でも、怒鳴り散らして周りに迷惑かけるよりはマシな気がする」
……あれ?
俺、今思ったこと全部口に出てた……?
恐る恐る榊の顔色を伺うと、案の定榊は更に顔を赤くして鬼のように怖い顔をしていた。
榊が「あぁ!?」と声を荒げたところで、ようやく教室の外から急いで駆けつける足音が聞こえてきた。
次の瞬間、ガラッと教室のドアが開き、慌てた様子のよっしーが飛び込んできた。
「お前らなにやってんだ!」
よっしーが大声で言うと、榊は小さく舌打ちをして自分の席に座った。
それを見て俺も席に戻る。
何事もなかったかのように再び進んでいく授業を聞き流しながら、俺はずっと榊に言われた言葉を思い返していた。




