47. 夕焼けの病室
「はぁ、はぁ」
風を切る音だけが聞こえる。
何も考えずに、ただ全力でアスファルトを蹴る。
俺は試合会場を飛び出して高橋のいる病院へと走っていた。
『舞ちゃんが、今さっき倒れて……』
『急用って……里宮も出れないのに、お前までいなかったら……あっ、おい五十嵐!』
「はぁ、はぁっ」
『すみません! すぐ戻ります!』
『今緊急手術室に……』
頭の中で、いくつもの言葉が響く。
心臓を、全身を支配する恐怖。
俺は何度も転びそうになりながら走り続けた。
『私、死んじゃうかもしれないんだって』
『どうしよう、五十嵐くん』
『ありがとう、がんばる……』
薄くオレンジ色に照らされた高橋の顔が次々に、浮かんでは消えていく。
やがて病院に辿り着くと、脳内にチラつく最悪な可能性を振り払いながら自動ドアをこじ開けるように体を滑りこませる。
そのまま速度を落とさずに階段へ向かうと、受付にいた看護師が何か言いかけるのが見えたがそれすら無視して走り続ける。
何も考えられない。何も考えたくない。
白い廊下を駆け抜け、たどり着いたのは大きなドアの前。
ドアの上では『手術中』と書かれた文字が赤く光っていた。膝に手をついて荒い息を整えていると、後ろから誰かが背中に手を置いた。
「ごめんね、お兄ちゃん」
切なげな声に顔を上げると、優花は申し訳なさそうに唇を噛んで目を伏せていた。
「私、慌てて思わず電話しちゃって……」
そこまで言って両手で口元を覆った優花の瞳には涙が浮かんでいた。
予定より早まった手術。危険な状態。
今までに感じたこともないほどの恐怖が襲いかかる。昨日まで笑っていた高橋が、まさかこんなことになるなんて。
「お兄ちゃん」
優花のよく通る声が響き、項垂れていた俺はゆっくりと顔をあげた。
「舞ちゃんの手術が終わるのは、早くて4時間後になるって。……そんなにずっと、ここで待ってるわけにはいかないでしょ」
“何が言いたいんだよ”
いつもなら言っていたけど、口が渇いていて声が出ない。優花は赤くなった目で、鼻をすすりながらも真っ直ぐに俺の顔を見ていた。
「だから」
優花は少し俯いて、俺の背中をトンと押した。
「行って。舞ちゃんのことは私に任せて。ここで行かなかったら、お兄ちゃんきっとまた後悔する。舞ちゃんだって、お兄ちゃんがそんな顔するの望んでないよ」
「でも……」
そう口にした声は掠れていた。
高橋が……もし、俺のいない間にいなくなってしまったら?
もし、もう二度と、会えなかったら?
「……お兄ちゃんはたぶん、ここに残ったって後悔するよ。お兄ちゃんには舞ちゃんが死んじゃう未来しか見えてない。お兄ちゃんは逃げてるだけだよ。また、“後悔”するのが怖いから。……お兄ちゃんは、みんなが1つの後悔もせずに生きてるとでも思ってるの?」
優花の強い言葉を聞いても尚、「でも」と視線を泳がせた俺に、優花が大声で怒鳴った。
「お兄ちゃん!」
その声に、俺は唇を噛みしめて廊下を蹴った。
あんなに大声で怒鳴った優花を見るのは初めてだった。
* * *
「じゃあ、解散」
坂上先輩の号令で、みんなはぞろぞろと会場を出ていった。
「五十嵐〜」
名前を呼ぶ川谷の声に、俺は暴れる心臓を抑えて川谷の顔も見ずに「悪い、先帰ってて……!」とだけ言って走り出した。
慌てた俺の様子に、川谷が首を傾げているのが見えた。
走りながらカバンに手を突っ込み、スマホを取り出す。優花からの連絡はなかった。
高橋の手術が終わったのかもまだわからない。
走れ、走れ。
今はひたすら走るんだ。
ただ、1秒でも早くあの病院に。
あの信号を左に曲がったら、あの坂道を登ったら、見えてくる。
暖かい春の風が汗ばんだシャツを揺らす。
スピードを緩めることなく病院内に入り、階段を駆け上がる。
角を曲がって、優花の病室を抜けて……。
大きな深呼吸をする。
『カラ……』
ドアを開けると、そこには息を飲むほど美しい夕焼け色が広がっていた。
窓から吹く春の風が白いカーテンを揺らす。
病室はどこまでも優しい空気で包まれていて、小さな花瓶に挿された花がこちらを向いて笑っているような気さえした。
……薄くオレンジ色に照らされたベッドに、少女が眠っていた。
その姿を見た瞬間、熱い涙が頬を伝った。
酸素マスクをつけ、腕には何本も線が繋がっていたけれど、高橋は小さな寝息をたてて眠っていた。
確かに、そこに生きていた。
俺はただその場に佇んで泣いていた。
今まで全身を支配していた恐怖がゆっくりと解けて行く。栓が抜けたように涙がとめどなく溢れてきて、拭いきれなかった何粒かの雫がポツポツと床に落ちた。
高橋のベッドの横に座っていた優花が立ち上がり、俺に優しく笑いかけた。
「お帰り、お兄ちゃん。ちょうど今舞ちゃんのお母さんが帰ったところだよ」
そう言った優花の顔は涙で滲んでいて見えない。
ゆっくりと高橋のベッドに近づくと、微かに小さな寝息が聞こえた。
「良かった……」
そっと高橋の手に触れる。
高橋の手は昨日と同じように温かかくて、俺は夕焼けの病室で声を殺して泣き続けた。