45. 呪いはもう
「五十嵐! 身長! 伸びた!」
キラキラした目でそう言った高津に、「おお、よかったじゃん」と優しく微笑む。
身体測定の日。
今日で、高橋に再会して丁度一週間が経った。
この一週間、俺は毎日欠かさず病院に通った。
優花のことが心配だったのはもちろん、高橋のことも気になった。俺は毎日、帰り際に隣の病室にも顔を出すようにしていた。
高橋がどうして入院しているのかはわからないが、いつも元気そうに笑っている高橋を見て俺は少し安心した。
……そんなことより今は、この『聞いて聞いて』の視線をどうにかしなくては。
「何センチ?」
そう聞いた瞬間、高津の顔にパッと笑みが広がった。
よほど嬉しかったんだろう。
「180センチ!」
「180いったのか、良かったな〜。俺182だった〜」
高津の喜ぶ姿は、尻尾をちぎれるほど激しく振る犬のようで、俺は思わず小さく笑った。
みんなといる時は、楽しくて心が落ち着く。
俺は目を瞑ってゆっくりと深呼吸をした。
……大丈夫。
あの頃のことはもう、過去にしたんだ。
高橋を変に意識する必要はない。
高橋はもう、元クラスメイトで、優花の友達でしかない。
それだけだ。
* * *
通い慣れた病院。見慣れた病室。
小さな花瓶に挿された花がふわりと揺れた。
座っていたパイプ椅子を片付けて病室を出ようとした時、「待って」という優花の声が小さく響いた。
「ん?」
首を傾げて振り返ると、優花は気まずそうな顔をしてそっと目を伏せた。
「……今日も、舞ちゃんのところ行くの?」
優花の珍しく不安そうな表情に、なんとなく居心地の悪さを感じる。
「……どうせなら行くよ。隣だし」
首筋を搔いて答えると、優花は「そう」と呟くように言って顔を上げた。
いつになく真剣な表情を見て、俺は思わずピンと背筋を伸ばす。
「舞ちゃん、明日手術なの」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
思わず「は?」という声が零れる。
優花の言った言葉が何度も脳内で再生され、それを理解するにつれ心臓の鼓動が早くなっていく。
「成功するか、わからない手術なの」
『ドクン』
俺は思わず心臓を抑えた。
『成功するかわからない』?
成功しなかったらどうなるんだよ。
失敗したらどうなるんだよ。
失敗って……。
失敗って、死ぬってことだろ。
それを理解した瞬間、心臓の鼓動が更に早くなった。だんだん息苦しくさえ感じられる。
「なんで……そんな、重い病気なのか? だって高橋はまだ……」
「病気に、年齢なんて関係ないんだよ」
俺の言葉の先を悟った優花が真剣な顔で言う。
その一言が、ズシリと身体にのしかかる。
「人間は、驚くほど脆いんだから。私だって、お兄ちゃんだってそうだよ」
優花はベッドの白いシーツを握りしめたまま、真っ直ぐに俺の目を見て言った。
「誰も、“明日死ぬかもしれない可能性”は、否定できないんだよ」
いつか、どこかで聞いた言葉。
人はいつ死んでしまうかわからない。
もしかしたら今日、事故に遭うかもしれない。
病気で倒れるかもしれない。
地震が起きるかもしれない。火事になるかもしれない。
人生には、いくつもの“もしかしたら”がある。
数え切れない程の可能性が、いつも潜んでいる。
そんな、残酷なこと。
わかってたけど。
わかってる……つもりだったけど。
冷たくなった指先が震える。
そうだ、あの日だって。
まさか優花があんなことになるなんて夢にも思っていなかった。今優花は生きてて、ちゃんとここにいる。
でも、“もしかしたら”。
あの日、死んでしまっていたかもしれないんだ。
「お兄ちゃん」
優花の、良く通る声は母似だ。
俺は思わずビクッと身体を震わせた。
「お兄ちゃんはもう、お兄ちゃんを許してあげて」
突然そんなことを言った優花に、思わず言葉に詰まる。何を言って良いかわからないまま、俺はただ黙って優花の話を聞いた。
「あの日の事故は、お兄ちゃんのせいじゃないよ」
静かな部屋に、優花の声だけが響く。
俺が口を開かずにいると、優花は小さく息を吐いて話を続けた。
「あの日、罠だってことはすぐにわかった。でもどうしてもお兄ちゃんが心配で、様子を見に行っただけだったの」
その言葉を聞いて、俺は思わずハッと顔を上げた。
『なにかと、感が良いんだよなぁ』
あの時、感じた違和感は……。
「だからあの日、お兄ちゃんが舞ちゃんに会っても会わなくても、同じことになってた。あいつらだって、ここまでのことをしようとしてた訳じゃないだろうし、私が勝手に溺れたんだし……。
だから、誰も悪くなかったんだ。自業自得だよ」
優花は情けなさそうに微笑んだ。
「だからさ、お兄ちゃん」
オレンジに染まり始めた空から吹いた風が、ふわりと白いカーテンを揺らす。
「私はもう、大丈夫だから。お兄ちゃんのこと憎いとか、そういうの一度も思ったことないし、お兄ちゃんの申し訳なさそうな顔見る方が辛いよ。
……もう、わかってるでしょ?」
優花は優しく、花のように柔らかく微笑んだ。
「舞ちゃんのこと、好きだって」
その一言を聞いた瞬間、俺の視界は滲んでいた。
もう、とっくに気が付いていた。
高橋のことを、まだ忘れられていなかった自分に。
好きだって、認めるのを躊躇っていた。
あの日、呪いたくなるくらいの後悔を味わって、もう二度とこんな思いしたくないって思った。
恋なんてしたくないって思った。
でも、違った。
考える暇もなく、躊躇う余裕もなく、いつの間にか芽生えている感情が“恋”なんだ。
「……ありがとう、優花」
呟くように言い、俺は優花の病室を後にした。
そうだ、もう縛られなくていい。
呪われなくていい。
もう、過去に縛られるのはやめよう。
俺は……高橋のことが、好きなんだ。
* * *
夕焼けの病室に取り残された優花は、どこか遠くを見るような瞳で窓の外を眺めていた。
「呪いはもうお終いだね」
静かにそう呟いた優花は、「おめでとう、お兄ちゃん」と、ほんの少し潤んだ瞳を静かに閉じて、穏やかに微笑んでいた。




