43. 世界が滲む
放課後の体育館。
部活が始まる時間まで、俺たちは体育館の隅で話をしていた。
「180センチ!」
「俺182だった〜」
「176……」
そういえば今日は身体測定の日だった。
俺は去年とあまり変わらなかったから特に気にしていなかったのだが、高津はそうではなかったらしい。
みんなが身長を発表していくにつれ、自分の頬が引き攣っていくのを感じた。
なんでみんな伸びてんの……?
高津と五十嵐は見るからに俺よりデカいけど、長野より低かったのは意外だった。少し、いやかなり悔しい。しかも結構な差がある。
まぁ、里宮はそんなもんじゃないだろうけど。
案の定身長の話題で機嫌を損ねた里宮に付き合い、俺たちはまだ誰も使っていないコートに駆け出して行った。
「ふー」
休憩時間、俺は体育館の隅に座って大きなため息を吐いた。頬を伝う汗を拭う。
まだ全然ダメだ。全然みんなに追いつけない。
そりゃあそんなに簡単に追いつけるなんて思ってないけど、もっと頑張らないと。
「香澄ちゃんってさ」
後ろから突然飯島さんの名前が聞こえて、反射的にピンと背筋が伸びた。
「正直、あんまり上手じゃないよね」
続いて聞こえてきた予想外の言葉に、俺は耳を疑った。思わず振り返ると、休憩中なのか、バレー部の女子たちが固まって話していた。
「あー、まぁそうだよね。しかもあの子絶対男好きでしょ」
「だよねー、言うほど可愛くないし」
……なんだそれ。
影で人のことぐちぐち言う人の方が、よっぽど“可愛くない”と思うんだけど。イライラが募っていくと同時に、飯島さんの柔らかい笑顔が頭に浮かぶ。
気がつくと、俺は女子たちの前に立ちはだかっていた。
「なんでそんなこと言うの?」
そうやって人の悪口なんか言って。
恥ずかしいと思わないのかよ。
「飯島さんは……っ」
「川谷くん!」
突然後ろから名前を呼ばれて振り返ると、そこに立っていたのは部活着姿の飯島さんだった。
「飯島さん……!?」
戸惑っている俺を御構い無しに、飯島さんは無言で俺の手首を引いて走り出した。
「ちょ、ちょっと……!」
まるで俺の声が聞こえていないかのように振り向きもせず走り続ける飯島さんに、俺は仕方なく口を閉じて飯島さんについて行った。
やがて体育館裏までやってくると、飯島さんはやっと俺の腕を離した。背を向けたまま荒い息を整えるように深呼吸してから振り返った飯島さんは、今にも泣きそうな顔をしていた。
「余計なこと、しないで」
か細く震えた声が鼓膜を揺らす。
初めて見る飯島さんの苦しそうな表情に、ズキンと心が痛んだ。
「ご、ごめん。でも俺、誤解を解こうと……」
「私、そんなこと頼んでないよ」
必死に弁解しようとした俺の声を遮って、飯島さんは言った。今にも泣き出してしまいそうなほど震えた声で。心臓が突き刺されたかのような衝撃が走る。
……痛い。
「そっ、か……そうだよね」
思わず、情けない薄ら笑いが漏れる。
ダメだ、これ以上ここにいたら。
……世界が、滲むかも。
「ごめんね、“余計なこと”して」
自虐的に微笑むと、俺はその場を後にした。
飯島さんの言葉が、表情が、何度も蘇っては心臓を刺す。
胸が、苦しい。
* * *
あれから飯島さんには会っていない。
とにかく何も考えないように、思い出さないように、練習試合でもがむしゃらな行動をしてしまった。
バスケをしている時だけは、全部忘れられた。
バスケだけに集中できた。
でもこうして落ち着いた空間にいると、どうしても飯島さんのことを考えてしまう。
「川谷?」
突然名前を呼ばれて、思わず「へ?」と間抜けな声を出して振り返ると、高津が心配そうな顔で俺を見ていた。
「大丈夫か? なんかぼーっとしてたけど」
「あぁ、うん……」
こうやってみんなにも心配かけるし、本当にダメだなぁ、俺。大きな溜息を吐いて空を見上げると、やたらと黒い空が俺たちを覆っていた。
今、唯一自然体で居られるのは部活の時間だけだ。
今日もバレー部とコートを分ける日だけど、練習が始まればきっと集中できる。体育館の隅で靴紐を結んでいると、バレー部の女子たちの笑い声が聞こえてきた。俺はほぼ無意識に溜息を吐く。
練習が始まるまでは、体育館にいない方がいいな。
顔でも洗って暗い気持ちごと洗い流そう。
そんなことを考えながら体育館を出ると、階段の陰から小さな話し声が聞こえてきた。
なんとなく気になってそっと覗くと、顔を赤くして俯く飯島さんの姿が目に入った。
「好き……です」
唐突にそんな言葉が耳に入り、俺は思わず目を見開いた。心臓が強く脈打つ。その言葉の意味を理解していくにつれ、息があがっていく。
初めて見る飯島さんの表情。
頬を赤らめて、キュッと唇を結んで。
それだけでどんな場面かわかってしまうような、恋をしている人の顔。
目の前の現実を見たくなくて、ギュッと目を瞑る。
握りしめた拳が震え出す。
飯島さんは優しくて、可愛くて、好きな人がいたって納得できる。それこそ、彼氏がいたって驚かない。
でも。だけど。
なんであんなに平気な顔してんだよ。
なんであんなに反応薄いんだよ。
なぁ、高津。
* * *
あの後、俺は思わずその場から逃げ出してしまった。
飯島さんは、高津のことが好きだったんだ。
高津のことが好きだから、高津を見てたから、俺のことを知ってたんだ。
頭の中で、飯島さんの笑顔が弾ける。
俺は飯島さんにとって、“好きな人の友達”だったんだ。
苦しい。苦しい。苦しい。
恋なんて。叶わない恋なんて。
あぁ、息苦しい。