34. 呪いたいのは自分自身 〜五十嵐 修止の過去・後編〜
「雨の中、学校のプールで溺れて」
「冬なのに、寒かったでしょうね」
「救急車で運ばれて」
「誰が」
「どうして」
「優花」
「なんで」
人々の声が、頭の中で混ざり合う。
まだ目を開けない優花を囲むようにして。
母の、よく通る声は震えていた。
「優花……なんで、プールになんて……」
俺は唇を噛んで、眠っている優花をただ見つめることしかできなかった。
数分して、大人たちはみんな次々に部屋を出て行った。
部屋に残された暗い空気は、俺ひとりで吸い尽くさなくてはならないのか。
……“大丈夫”なんて言ったくせに、助けてやれなかったじゃないか。
優花が苦しんでいる時、俺はクラスメイトと楽しく遊んでて……。
優花が、どれだけ苦しかったか。
辛かったか。
……俺は。
「お兄、ちゃん……?」
ベッドの上からかすかに聞こえた弱々しい声に、俺は慌てて顔を上げた。
「優花?」
思わず立ち上がって優花の顔を覗き込むと、優花の瞼がゆっくりと開いた。
「優花……!」
優花が瞳だけ動かして俺の方を見たのを確認して、俺は病室を飛び出して医者を呼んだ。
駆け込んできた医者達に押しのけられ、俺はただ見守ることしかできなかった。
* * *
翌日。
俺はいつもどおり学校に来ていた。
優花は、しばらく入院することになった。
学年が違うとはいえ、学校に警察が来たこともあり噂はあっという間に広まっていた。
そしてこの騒ぎの被害者が、俺の妹だということも。
俺の方を見て何かヒソヒソと話している人もいる。
そんなこともあって、当然いつもどおりの学校ではなかった。
……こんなところにいる暇じゃないのに。
優花は今も苦しんでいるかもしれないのに。
優花のそばにいることができても、俺が優花にしてやれることなんて、何もないけど。
でも、じっとしてなんていられない。
昼休み、俺は渡り廊下を通って反対側の校舎へ行った。
階段を登り、5年3組の教室へ歩いて行く。
もちろん、優花のクラスだ。
教室のドアから出てきた二人の女子に、俺は声をかけた。
「あの、ちょっといい?」
振り返った女子二人は不思議そうに眉を顰めてためらいがちに頷いた。
……知りたい。
優花に、なにがあったのか。
「昨日のこと、何か知ってたら教えてくれない? 俺、優花のお兄ちゃんなんだけど」
そう口にした瞬間、二人の女子は目を丸くして互いの顔を見合わせた。
一人の女子が俺の顔色を伺いながら言う。
「昨日のことは……私はいなかったから詳しくはわからないけど、男子達が……」
言葉を切った女子は困ったように目を泳がせたが、ゆっくりと口を開いた。
「優花ちゃんのお兄ちゃんをプールで溺れさせたって……」
「は!?」
予想外の言葉に、俺は思わず大声を出していた。
女子達がビクッと身を震わせる。
そんなの嘘だ。俺は昨日、高橋の家にいた。
俺がプールで溺れてるって嘘を優花が信じたんだとしたら、優花は間違いなくプールに行くだろう。
……俺を助けるために。
そうして優花を誘き寄せた誰かが、優花をプールに突き落としたんだ。
優花は泳げない。
冬の夜は暗いし、昨日は雨が降っていて気温も低かった。
だから優花は……溺れた。
じゃあ、優花は俺を助けるために……?
優花は、俺のせいで……?
次の瞬間、黙り込んだ俺を見て、女子達がヒソヒソと話す声が聞こえた。
「やっぱり嘘だったんだ……」
「ね、小山最低……」
その瞬間、ピリッと脳に衝撃が走った。
「“小山”ってやつ、今どこにいる?」
「あ……昨日のことに関わってる人は、今全員職員室に……」
女子が話し終える前に、俺は走り出していた。
はらわたが煮えくり返りそうなほどの怒りに耐えながら拳を握り締める。
階段を駆け下り、長い廊下を全速力で走り抜ける。
角を曲がり、遠くに見えた職員室のドアから、数名の男子が出てきていた。
その姿を見た瞬間、俺の怒りは爆発した。
男子の中の一人の胸ぐらを掴み、握った拳を勢いよく振り上げた。
それからのことは、あまりよく覚えていない。
* * *
数時間後、俺は母さんの車に乗り込んでいた。
先に殴ったのは俺だし、相手が年下だったこともあって俺は悪者にされた。
おかげで母さんは優花をいじめたやつの母親に頭を下げなくてはならなかった。
「……ごめんなさい」
俺は震える声を絞り出した。
「俺、優花のいじめのこと知ってたのに、何も……」
助けてやれなかった。守ってやれなかった。
何もしてやれなかった。
その上怒りを抑えられずに余計なことをした。
運転席に座る母さんは、俺の方を向かないまま「修止は何も悪くないよ」と言った。
「母さんだって……何も、」
母さんの声が途切れる。
「気づいて、あげられなかった……」
驚くほど震えた声で悔しげにそう呟いた母さんの瞳には涙が浮かんでいた。初めて見る母さんの涙に、俺は何も言えずに下を向いていた。
その時、ピリリリリッと母さんの携帯が鳴った。
母さんはそっと涙を拭って鼻をすすり、携帯を耳に当てる。
しばらく相槌を打っていた母さんの顔が引きつって行く。誰からだろう? そう思った瞬間、「え!?」という母さんの大きな声が車内に響いた。
それからすぐに電話を切った母さんは、真剣な表情でシートベルトを閉め、「修止、このまま病院行くよ」と、呟くように言った。
「え!? 優花に何かあったの!?」
身を乗り出してそう聞いても、ハンドルを握った母さんはただ前を見ていて、何も答えてくれなかった。
* * *
病院に着くと、優花の発作は治まっていた。
ベッドの上で静かな寝息を立てている優花の頬を撫でていた母さんは主治医の話を聞くために病室を出て行った。
詳しいことはわからないけれど、優花を襲った発作は溺水による後遺症だったらしい。
……あまりにも残酷だ。
騙されて、溺れさせられて、後遺症まで残るなんて。
……なんで。
なんで俺は助けてやれなかったんだろう。
優花がいじめを受けているのは知っていた。
でも、どこか現実味がなかったんだ。
優花は何も言わなかったから。
きっと俺を、家族を心配させないために、必死に普通を装っていたんだ。頑張って我慢して、笑って。
なんで俺は気づいてやれなかったんだ。
なんでもっと深く考えなかったんだ。
優花は気づいて欲しかったはずだ。
助けて欲しかったはずだ。
「助けて」って言われなくたって、俺が。
優花を助けてやれるのは、俺しかいなかったのに。
「ごめんな……」
涙混じりにそう呟いて、柔らかな髪を優しく撫でた。
優花の瞳がゆっくりと開く。
ごめん、ごめん、ごめん、ごめん。
「ごめんな、優花。俺のせいで……」
それ以上、言葉を絞り出すことができなかった。
部屋中に自分の泣き声が響く。
そんな俺に、優花はただ「お兄ちゃん、大好き」とか細い声で言って微笑んだだけだった。
その笑顔が切なくて、俺はただ顔を覆って謝り続けることしかできなかった。
* * *
それから、優花は入退院を繰り返すようになった。
6年生になっても、中学生になっても、優花はまともに学校に通えなかった。
その度に申し訳なさそうな顔をする俺に、優花はいつも「大丈夫だよ」と言って微笑んでくれるのだった。
あの日、胸の中で膨らんだ罪悪感は、きっとこの先どんなことがあっても消えることは無い。
俺が健康であることが、俺の笑顔がどうしても憎い。
優花をいじめたやつのことも、もちろん憎い。
許せない。許さない。だけど。
優花をいじめたやつよりもっと、呪いたいのは自分自身だ。