32. 会いたくなかった
大会当日。
よく晴れた暖かい日。バスの中にさす優しい光が心地良い。静かに目を閉じていると、あっと言う間に会場に着いた。
久しぶりの大会だ。
日差しは暖かいのに、緊張で腹が冷えそうだった。
里宮は相変わらず眠そうにあくびをしている。
「ただでさえ朝で眠いのにあったかいとかダブルパンチはんそくー」
里宮が目元を覆って言うのを聞いて思わず笑っていると、ふいに里宮が俺の目を覗き込んで言った。
「高津、緊張してる?」
そんなの、してるに決まってんだろ。
心の中で即答しながらも、俺は「あー」と頭をかいて目を逸らした。
“自信ない”なんて、カッコ悪いこと言えないっつーの。
今日の対戦相手は白都高校(略して白校)だ。
初めて聞く高校だった。
強いのか弱いのかも俺はよく知らない。
そんなことを考えながら入口までの道を歩いていると、遠くにツインテール姿の人影が見えた。
とくに気に留めず目を逸らそうとした瞬間、人影がこっちに向かって手を振っているのに気づく。
誰だ……?
首を傾げて目を凝らしたその時、聞こえてきた声に俺は息が止まりそうになった。
「蓮!」
その呼び名に、思わず背筋が凍りついた。
女子は一直線に俺の後ろを歩いていた里宮のもとへ走ってくる。
「久しぶり! こんな所で会うなんて、偶然だねー!」
白校のジャージを着た女子はペラペラとハイテンションに話し続ける。
「私、男バスのマネージャーになったんだ! 蓮もマネージャー?」
里宮は、女子の目の前で立ち尽くして硬直している。
……明るい性格。
里宮のことを『蓮』と呼ぶ“女”……。
まさか。
そう思った瞬間、里宮は走り出していた。
「あ……」と、女子の口から蚊の鳴くような声がこぼれ落ちる。
周りの音が聞き取れないくらい、自分の心臓の音がうるさい。
まさか。
まさか、この人が……。
里宮の心に傷をつけた“女”、工藤 阜。
* * *
工藤 阜。
里宮の中学校時代の友達。
そして、里宮を裏切った“女”。
里宮の、トラウマ。
ハッとして辺りを見回す。
もうそこに里宮の姿はなかった。
嘘だろ、もうすぐ試合が始まるってのに……!
俺は立ち尽くす女子の脇をすり抜けて走り出していた。
会場内の控え室に荷物を投げるように置き、廊下へ飛び出す。
俺はいつも、里宮に何も言わなかった。
何も言えなかった。
里宮に、昔の記憶を思い出させないために。
でも、本当はいつも苦しんでいるんじゃないか?
本当は、全部吐き出したいと思っているんじゃないのか……?
階段を駆け上がり、観客席の横をすり抜けて走る。
ふと、窓の外に見慣れた後ろ姿が見えた。
外に続く非常階段。
日の当たるコンクリート。
そこに、里宮はいた。
まだ少し肌寒い風が、里宮のポニーテールを悲しげに揺らす。
俺はなんと声をかけていいのかわからずに立ち尽くしていた。
すると、俺に気づいた里宮が静かに口を開いた。
「……嫌でも、わかるだろ。あれが阜だよ」
里宮は階段の端に座って、抱えた膝に顔を埋めていた。
「里、宮……」
絞り出した声が震えているのを知りながら、俺は言葉を続けた。
「行こう、里宮。試合始まるよ」
里宮は静かに首を振って、聞き取りずらいくらいに小さな声で「行けない……」と呟いた。
里宮は顔を伏せたままこっちを見ない。
「……大事な試合だよ」
なだめるようにそう言っても、里宮は顔を上げない。
どうすれば……。
唇を噛んで考え込んでいると、かすかに鼻をすする音が聞こえてきた。
「里、宮……?」
信じられない。
あの里宮が泣くなんて。
「大丈……」
「嫌だったんだ」
俺の言葉を遮って、里宮は泣きながら言った。
「もう、会いたくなかった……」
聞いただけで胸が苦しくなるような、切ない声だった。
俺は里宮が今まで抱えてきた苦しみを知ってる。
弱さを知ってる。
これが、今この瞬間が、里宮にとってどれだけ辛いことなのかも。
俺は歯を食いしばって俯いた。
今、目の前で苦しんでいる仲間がいる。
助けたい。力になりたい。
でも、なにも言葉が見つからない。
俺なんかじゃ、里宮の傷跡は消せない。
たとえどんなことをしても、里宮が過去を忘れ去ることはできない。
静かな風の音と、里宮の嗚咽が痛いくらいに響く。
……それでも。
俺がここにいる意味は。
里宮のそばにいる理由は。
俺は重い足を引きずるように一歩を踏み出した。
足は、止まることなく進み、里宮のとなりに座った。
里宮は涙で濡れた瞳を丸くして俺を見た。
でも一番驚いているのは、たぶん俺だ。
「俺は、里宮がいたから強くなれたんだよ。まだ、五十嵐とか長野とか川谷とか……里宮よりは、全然弱いけど。それでも、里宮がいてくれるだけですごく嬉しい。みんなと過ごせて楽しい。里宮は、俺を助けてくれた人だから。……俺も、里宮の力になれないかな」
言うんだ。
俺が、里宮に一番伝えたかったこと……。
「もっと、頼ってよ」
一人で抱え込まないで。
俺がいる。みんながいる。
話を聞いてくれる人がいる。
弱さを分かってくれる仲間がいる。
俺たちはみんな、里宮に救われているんだ。
どうしようもない弱さも、トラウマも、みんなで乗り越えようって。
乗り越えられるんだって、思えるようになったんだ。
里宮がいたから。
お前がいなかったら俺たちは、どうやって戦えばいいんだよ。
お前がいないと。
“みんな”でいないと。
俺たちは戦えない。
里宮は、顔を覆っていた手を静かに離した。
「私は……なにもしてない」
「そんなことないよ」
今までの俺なら、口を噤んでいた。
なにか言うことで、俺の言葉で、人を傷つけてしまうと思ったから。
自分が傷つくのなんて、へっちゃらだった。
それで誰かが笑えるなら、別にいいやって思えた。
でも、そんな考えを変えてくれた。
……俺の、好きな人。
「里宮は、俺に沢山のことを教えてくれた。
里宮は……俺の、憧れなんだ」
里宮がこぼした一粒の涙は、雨のようにコンクリートを濡らした。
また泣きそうな目をして顔を伏せようとした里宮の目の前に、俺は立ち上がって右手をさしだした。
「行こう、里宮。“阜”なんて関係ない。
俺たちは俺たちのやり方で勝ってやろうぜ!」
歯を見せて笑った俺に、里宮は苦しげな顔を隠すように俯いた。
目元を覆い、涙を拭いて呆れたように微笑んだ里宮は「ほんと、高津は大馬鹿だよ」と呟いた。
里宮は俺の手を握って立ち上がった。
俺は里宮のすすり泣く声を聞きながら、なにも聞こえないふりをして大股で歩き出す。
里宮の小さな手を引いて。
「……ありがとう」
里宮が小さく呟いた言葉に、俺は振り向いて優しく微笑んだ。




