30. “愛犬”なんて 〜川谷 健治の過去・後編〜
「健治〜、早くしなさ〜い! メイが待ってるわよ〜」
「はーい」
ベッドから起きあがり、ハンガーに掛けてある制服を手に取る。
不登校になってからの三ヶ月間、俺は家で勉強を続けた。誰も知り合いがいない遠くの塾に通い、両親に勧められた中学受験をした。
勉強を始めたのが遅かったのもあって、結構ギリギリだった気もするが、まぁ今となっては良い思い出だ。
学校に行かなくなった日から、俺は外に出るのを躊躇うようになった。
新田に会いたくなくて、クラスメイトに会うのが気まずくて、外になんて出たくないと思っていた。
それでも俺は、メイの散歩を休んだことは一度もなかった。
時間をずらしたり、散歩コースを変えたりして俺は毎日メイと散歩をした。
あの日、メイが励ましてくれたからこそ、俺は今こうして前を向いて歩くことが出来ているんだ。
中学1年の冬。
憧れだった制服にも、もうすっかり慣れた。
学ランのボタンをきっちりと閉め、階段を下りていく。
「メイ?」
いつもなら待ってましたと言わんばかりの勢いで駆け寄ってくるはずのメイが、今日はいなかった。
不思議に思ってリビングへ行くと、仕事前の母さんがバタバタと忙しそうに準備をしていた。
「ねぇ、メイは? いないんだけど」
「あれ? さっきまでその辺でうろうろしてたけど……。ケージは?」
母さんに言われた通りにメイのケージを確認するが、そこにメイはいなかった。
ソファーにも、メイ用のクッションの上にも居ない。
だんだんと心臓の鼓動が早まって行く。
反射的に玄関の方へ目を向けると、いつもは閉まっているはずの鍵が、開いていた。
「メイ!」
嫌な予感が脳をよぎり、俺は思わず外に飛び出していた。
「あっ、健治!」
後ろから母さんの呼び止める声が聴こえるが、今はそんなことを気にしている場合じゃない。
早く、メイを見つけないと。
いつもの散歩コースを全速力で駆け抜ける。
メイがいなくなったらどうしよう。
見つからなかったらどうしよう……。
俺の胸で膨らんだ不安は、自然と走る足を急がせた。
少し息苦しさを感じ始めた、その時。
「キャン!」
今までに聞いたことのない鳴き方。
……でも、間違いない。メイだ。
俺はメイの鳴き声が聞こえてきた河原の方に向かって全力で走った。
なんだ? なにが起こっているんだ?
メイに、なにが……。
「ギャハハハハハ!」
次の瞬間、聞こえてきた笑い声に俺は反射的に動きを止めた。姿勢を低くして草木の影に身を隠し、声の聞こえてきた方を覗く。
俺は、思わず目を見開いていた。
そこには身体を小さくして蹲っているメイがいた。
そして……その周りを、囲むように立っている男達。
男達はみんな背が高く、見覚えのあるブレザーを着ていた。恐らく近所の高校の生徒だろう。
あまり良い噂を聞かない高校だ。
……助けないと。
早くメイを助けてやらないと。
立ち上がれ。走れ。
行け! 行くんだよ!
どれだけ自分に言い聞かせても、足が震えて動かない。
まるで金縛りにあってしまったかのように、体がピクリとも動かなかった。
だんだん息苦しくなってくる。
目の前で、笑いながら足を振り上げる男達。
助けを求めるように叫ぶメイ。
……助けに、行ける。
今なら、まだ間に合う。
なのにどうして……。
俺の足は、動いてくれないんだ。
食いしばっていた歯がギリリと音をたてる。
拳を握る手に力が入り、爪が手のひらに食い込んで行く。
なんで。どうして。
頭の中はそれでいっぱいだった。
なんでこんなことになったんだ。
どうして俺は助けに行かないんだ。
どうすればいい?
こうしている間にも、メイは弱っていくのに。
どれだけ願ったって、祈ったって、メイは助からない。
今ここにいる俺が助けてやらなくちゃいけないんだ。
それなのにどうして……“怖い”なんて。
メイの方が、ずっと怖いはずなのに。
次の瞬間、俺は勢いよく立ち上がって走り出した。
……自分の家へ。
そう、俺は逃げたのだ。
捨てたのだ。
なによりも大切だった存在を。
心にぽっかりと穴が空いたような気持ちだった。
それと同時に、どこかで安心している自分がいる。
そんな自分が許せなかった。
メイは、今も苦しんでいるのに。
最低だ。
“愛犬”だって?
自分で助けることもできないくせに、よく言うよ。
メイは、ずっと。
俺を助けてくれていたのに。
励ましてくれていたのに。
メイがいたから、俺はここまで生きて来れたのに。
走り続けて、やっと辿り着いた家。
本当は、ここにメイを連れて来なければいけなかったのに。
「母さん!」
玄関のドアを開けるなり、大声で叫んだ。
「メイが、メイが……っ!」
* * *
静かすぎる部屋。
目の前には、メイが横たわっている。
いつも笑顔で俺に駆け寄ってきてくれたメイは、もうピクリとも動かない。
キラキラ輝いていた丸い瞳は閉じられ、いつも激しく振っていた尻尾は力なく毛布の上で丸まっている。
当時の俺にとって、どれだけ辛いことだったか。
3年経った今でも覚えている。
もしもあの時、俺が勇気を振りしぼっていたなら?
もしもあの時、もっと早くメイを散歩に連れて行っていたなら?
もしも、あの時……。
メイを拾ったのが、俺じゃなかったら?
もっと良い飼い主を見つけて、もっと幸せだったかもしれない。
もっと……生きていたかもしれない。
瞳から溢れ出した涙は、俯く俺の鼻を伝って床に溢れた。静かな部屋に、小さく雫の音が響く。
ごめんな、メイ。
俺が弱かったせいで、痛い思いさせてごめんな。
俺は歯を食いしばって泣いた。
俺があの時、飛び出してメイの盾になれば良かったのに。
もう、取り返しのつかない事実。
“現実”はなによりも恐ろしく、飲み込むように俺を襲った。
自分に“勇気”というものがなかったこと。
自分が思っていたよりずっと醜かったこと。
さまざまな想いを痛感して、俺はそれから暗い毎日を過ごした。
高校生になって、“あいつら”に出会ってからも、メイを忘れることはなかった。
あの日の後悔を、過ちを、俺は絶対に忘れない。