26. 帰って来て 〜長野 竜一の過去・後編〜
ばーちゃんがいなくなって3年。
俺は小6、充は高3になった。
今日は、充の大学受験の合格発表の日だ。
俺はばーちゃんがいなくなってからも、今までと変わらない学校生活を送っていた。
充は、第1志望だった高校に受かってたくさん勉強をしていた。
それはもう、心配になってしまうくらい。
部活にも入らず、塾に通って。
そこまでしてどうして勉強なんてするんだろう。
そんなに勉強してなんの意味があるんだろう。
いつだったか、そう尋ねた俺に充は「勉強、好きだからな」と言って笑った。
そしてその後、「夢があるから」とも言った。
将来の夢。クラスメイトたちは、それを持っているのが当然のことのように話をしている。
俺には将来の夢なんてない。
将来の夢があるやつは偉いのか。勉強ができるやつは偉いのか。俺にはよく分からなかった。
『大事なのは、心だよぉ』
ふと、そんな声が聞こえた気がして振り返る。
畳の部屋に、もうばーちゃんがいないこと。
それはすごく悲しく、辛かったけれど、いつの間にかばーちゃんの姿を懐かしく思うようになっていた。
自然と口元が綻ぶ。
こうやってきっと、痛みは薄れていく。
『ガタッゴトッ』
突然聞こえてきた音に、俺は反射的に振り返る。
そこは充の部屋だった。
おかしいな、充はまだ帰ってきてないはずなのに。
不審に思って充の部屋のドアを開けた俺は、そこに広がっていた光景に目を見開いた。
勉強机、そこに乗っていた教科書、本棚、ベット、タンスの中身……。
全てが空になった、充の部屋。
その真ん中で、無表情の母さんが淡々と荷物を片付けていた。
「母さん……」
思わず溢れた呟きに言葉を繋げることが出来ず戸惑っていると、母さんがこっちを振り返ることもせずに話し始めた。
「充が」
静かな部屋に、母さんのよく通る声が響く。
「『大学に合格したから、家を出る』って……」
「っ」
なんだよそれ。なんで、急に……。
喉につかえた言葉を発することなく慌てて飲み下す。
なんと言えばいいのか分からずに立ち尽くしていると、『ガチャッ』とドアの開く音が聞こえた。
反射的に玄関まで走って行くと、そこにはコートとマフラーを身につけ、鼻を赤くした充が立っていた。
「竜! 合格したぞ! すごいだ……ろっ」
途中で俺にどつかれた充の言葉が跳ねる。
「な……」
「引っ越しってなんだよ……」
なんでそんなこと言うんだよ。
なんで何も教えてくれなかったんだよ。
ざわつく心臓を抑えて、肩を震わせて喚いた。
「家を出るってなんだよ!」
充は驚いたように目を丸くしてから、すぐに優しい微笑みを浮かべた。
「そっか。母さんから聞いたのか」
あっさりとそう言った充に、静かな絶望が胸を満たして行く。
「なんで……」
俺の目には、自然と涙が浮かんできていた。
……恐ろしかった。
充まで居なくなってしまうなんて、本当の1人になってしまうみたいで。
「ごめんな、竜。言うのが遅くなって……」
申し訳なさそうにそう言って、俺の頭を撫でようとした充の手を、俺は思わず振り払っていた。
「なんで引っ越しなんか! いっぱい働いて、父さんと母さんを喜ばせるって約束したじゃんか!」
噛み付くようにそう言っても、充は頷いてはくれなかった。
ただ、申し訳なさそうに目を伏せている。
「ごめんな、竜。俺……」
充は顔を隠すように片手で口元を覆った。
充の頬が微かなピンク色に染まって行く。
「どうしようもなく、好きな子がいるんだ」
「……っ」
好きな……子……?
「だから、その子と一緒に暮らしたいんだ」
想像もしていなかった言葉に、俺は思わず目を丸くしていた。
怒り、呆れ、嫌悪。
さまざまな感情が身体の中で混ざり合う。
“好きな子”……?
あぁ、そうかよ。
自分の欲望のためだけに、弟との約束を破って、父さんと母さんを悲しませるんだな。
いい加減にしてくれよ。
俺が、仕方なく影にいたこと、知ってんだろ。
充は、いつだって俺より上だ。なにもかも。
充を超えるものなんて、俺は何一つ持っていない。
それは年の差のせいだけじゃない。
充が俺と同い年だったとしても、きっと同じ結果になっていただろう。
俺だって、学校では人気者だよ。
クラスメイトを笑わせるのは得意だ。
だけど。でも。
疲れちゃうんだよ。
ずっと笑ってなんていられないよ。
……でも家に帰れば、迎えてくれる人がいる。話を聞いてくれる人がいる。
みんなはそうなんだろう。
……俺は違う。
父さんも母さんも、俺が寝てから帰ってきて、俺が起きる前に仕事に行ってしまう。充だけが、“帰って来てくれる人”だったのに。
いつも、唯一俺が起きている時間に帰って来てくれる充を待ってた。
どんなに腹が減っても、充とご飯を食べたいから我慢した。
どんなに眠くても、充に「おかえり」って言いたいから我慢した。
でもこれから、それすらも無くなってしまう。
俺は本当に独りになってしまう。
「……竜も、恋すればわかるよ」
柔らかく微笑んでそう言った充に、俺は初めて怒りを覚えた。
全身を搔きむしりたくなるほどの怒りを。
ギュッと強く拳を握る。爪が掌に食い込む感覚と同時に、鋭い痛みが走る。
その痛みは、腕を通じて、俺の心をチクリと痛めた。瞬間、底無しの恐怖と深い悲しみが俺を支配する。
暗闇の中に一人でいる。
独り。独り。独り。
……独りは、嫌だ。
「……行かないで」
俺の瞳から、堪えていた涙が溢れ出す。
「竜……」
「行かないで……俺、また独りになっちゃうよ……」
行かないで。帰ってきて。俺を独りにしないで。
「……大丈夫。竜は独りじゃないよ」
柔らかく微笑んで、充はそっと俺の頭に手を置いた。
俺は今度は充の手を振り払わなかった。
優しい手の温もり。その温かさが心地良かった。
「きっといつか、竜もこの世で一番と思えるくらい大好きな人に出会えるからな」
その言葉は、何故だか自然と俺の中に入ってきて、先程まで黒く渦巻いていた怒りや悲しみを消し去っていった。
俺は何度も強く頷いた。
本当はわかってる。
何も充のせいじゃない。充は今までたくさん頑張ってた。充は何も悪くない。
悔しいな。充ばっかり大人になって行く。
俺も、早く大人になりたい。
「充」
顔を上げ、涙で濡れた頬を釣り上げるようにして笑った。軽く拳を握り、充の胸に突きつける。
「行ってこい!」
充は大きく頷いて「ありがとう」と笑った。
嬉しそうな顔をして俺の頭を撫でる。
「行ってきます、竜。……頼んだぞ」
……こうして俺が小6の時、充は家を出て行った。
それから中学に入った俺は闇雲にバスケを始めた。
誰もいない家に、一人でいるのが辛かったからだ。
そして、高校ーー……。
『この世で一番と思えるくらい大好きな人に出会えるからな』
……充。俺、出会えたよ。
“恋”っていうのは、まだよくわかんないけど。
俺、あいつらといる時が一番楽しいんだ!
* * *
「……野、長野!」
なぜか和室で眠っている長野を揺さぶる。
「ん〜?」
幼い声を発した長野は、大きく伸びをして目をこすった。
「お前が遅いから見に来てやったんだぞ? 川谷の誕生日パーティーなのに、何呑気に寝てんだよ」
思わず苦笑いをして言うと、長野が突然ガシッと俺の手を掴んだ。
「!?」
「高津、大好き」
「!?!?!?」
突然なに言ってんだこいつ。寝ぼけてんのか?
「わかったから。ほら、立てよ」
「ムリ」
俺の腕を掴んで顔を伏せたままの長野が小さく首を振る。
思わず大きなため息を吐き、長野に掴まれた腕を左右に振ってみるが、長野は手を離すことなく俺に合わせて左右に揺れた。
「俺、みんなのこと大好き」
「ハイハイ」
数秒後、やっと気が済んだのか俺の腕を離した長野は立ち上がってうんと大きく伸びをした。
「じゃ、みんなにも愛の告白してくるわ」
「別にいいけど……里宮にはそういう冗談通じないんじゃね?」
脳裏に「は?」と顔をしかめる里宮の顔が浮かび、思わず苦笑いをした。
「冗談?」
そう言って首を傾げた長野に、俺は目を丸くする。
「だから……って、え? 長野、里宮のこと好きなの?」
「え? うん」
当然のことのように頷いた長野に、俺は思わず目を見開いた。
するとそんな俺の様子を見た長野が「あ、そっち? 俺みんな大好きだよ。それに俺“恋”とかよくわかんねぇし」と頭をガシガシとかいた。
あぁ、なんだそっちか。ビックリした……。
ん? なんで俺ホッとしてんだ?
長野が里宮のこと好きだって、2人が付き合ったってなんの問題もねぇだろ。
別に里宮のこと好きなわけでもないし。
よし、一旦落ちつこう。
落ち着け、落ち着け……。
「高津は里宮のこと好きなの?」
「……」
落ち着け、俺!
「ちげぇよ。そんなわけないだろ」
大げさに肩をすくめてそう言う。
その声が微かに震えてしまった。
いやいや、なんで緊張すんだよ。事実だし!
「マジで? そーなんだ。高津、当たり前のように里宮のこと好きだと思ってたわー」
『ドクン』
「え?」
「ん?」
『ドクッ』『ドク』
「俺……そんな風に見える……?」
恐る恐るそう聞くと、長野はキョトンとした顔で答えた。
「うん。もうバリバリ」
『ドクンッ』
俺、そんな風に……?
一気に顔が赤くなっていく。
そんなはずはない。そんなはずは……。
必死にその考えを振り払おうとするが、考えれば考えるほどわからなくなる一方だ。
『高津』
脳内で俺を呼ぶ里宮の声がやけに大きく響く。
熱くなった頬を隠すように口元を覆い、ゆっくりと心臓に手を当てる。
俺の心臓は、とても速く、強く脈打っていた。