25. どうして、俺を産んだの? 〜長野 竜一の過去・前編〜
「竜!」
懐かしい声が、耳元で響く。
毎日当たり前に聞いていたその声も、いつしか遠いところへ行ってしまった。
懐かしい、充の声だ。
* * *
……長野 充。
俺の兄ちゃん。年が6個も離れていて、いつも優しかった。
俺が小3の時、充は中3だった。
充が受験のため塾に行くようになり、もともと金持ちでもなかった俺の家は貧乏になった。
俺の家にはボケたばーちゃんも一緒に住んでいたから、デイサービスに行くための費用などもかかっていたのだろう。
「みっちゃん、お帰り。塾行ったんじゃなかったの?」
「いやばーちゃん、俺、竜」
「「……」」
「あらあら、やーねー」
そんなことは日常だったし。
「ぎゃー! お風呂沸かしたのに栓が閉まってないー!」
「おーい、またトイレの電気つけっぱなしだぞー」
全ての犯人がばーちゃんだった。
「あらあら、やーねー」
ばーちゃんはずっとそう言っていた。
いくらボケてしまっているからと言って、ヘラヘラした態度に腹が立ったのか、ある日母さんはばーちゃんを怒鳴りつけた。
「どうしていつもやりっぱなしなんです!? もう少し気をつけてください! 充は今年受験なんです!」
ばーちゃんはやっぱり、いつものように「あらー」と言って俯いただけだった。
けれどその日、俺は確かに見たんだ。
薄暗い畳の部屋で溢れた、ばーちゃんの涙を。
仏壇の前で正座をして、死んだじーちゃんの写真を見上げるような姿勢で固まっていた。
そっと部屋に入ると、ばーちゃんはゆっくりと振り返って俺の顔を見た。
そして、「やーねー」と、笑いながら涙を拭いた。
「おいで、竜ちゃん」
ゆったりとした動きで優しく手を広げたばーちゃんの胸に、俺は躊躇することなく抱きついた。
「歳を取ると、涙腺が弱くって。やーねー」
言い訳をするようにそう言いながら涙を拭くばーちゃんに、俺は「寂しい?」と聞いた。
2年前までは、じーちゃんと二人で暮らしていた。
それが、家にいる人数は増えたはずなのに、すれ違いの日々。
呆れ顔。ため息。怒鳴り声。
「竜ちゃんがいるから、寂しくないよぉ」
いつもの落ち着いた声でそう言ったばーちゃんは、ふわっと俺の頭を撫でた。
その暖かさが、酷く俺の胸を締め付けた。
何度言っても忘れてしまうのはばーちゃんのせいじゃない。わからなくなってしまうのもばーちゃんのせいじゃない。
仕方のないことなんだ。
それから俺は、ばーちゃんが風呂を溜める前には必ず栓をチェックするようになったし、ばーちゃんがトイレから出てきたら電気を消してやった。
こうやって、サポートすればいいだけの話なんだ。
そんなある日。
「なんですって!?」
リビングから母さんの大声が聞こえてきた。
「母さん、どうしたの……」
「会社が潰れたって、あなた本気で言ってるの!?」
「……っ」
俺の声も聞こえないほど興奮した様子の母さんは、縋り付くように父さんの服を握っていた。
「じゃあ、充はどうなるのよ! 充の受験はどうなるのよ!!」
目を瞑って叫んだ母さんの言葉に、スッと心が冷えていくような感覚を覚えた。
なぜだろう。いつもそうだった。
父さんや母さんが気にかけるのはいつも充の方。
その度に俺は、少しずつ。
息苦しく、なっていった。
笑顔でいることだけが取り柄だった。
家でも学校でも、笑顔だけは絶やさないように頑張ってきたんだ。
……だけどもう、限界だ。
クラスメイトにも先生にも親にも、充と比べられる。
いっそ憎んで、妬んで、嫌いになれたら楽なのに。
充は優しいから。
嫌いになれない自分、嫌いになろうとする自分。
その苦しみがまた募っていく。
……俺、ここにいるのにな。
心配なのは、充だけなの?
頭の良い充だけなの?
ねぇ、母さん。
怒ったような、苦しんでいるような瞳に涙を浮かべて。
父さんを怒鳴りつけている。
そんな母さんの姿が揺らぐ。
俺、いらなかったんじゃないの?
1人で十分だったんじゃないの?
お金だってかかるのに。
どうしてわざわざもう1人……。
俺を。俺を産んだの?
「っ」
身体が震える。計り知れないほどの恐怖に足がすくむ。
震える手で口元を覆った。
それは俺が、ずっと、考えないようにしていたこと。
“どうして、俺を産んだの?”
「……っ」
自然と、冷たい涙が頬を伝う。
「竜ちゃん」
柔らかい声に振り返ると、ばーちゃんが畳の部屋で小さく座っていた。
にっこりと優しく微笑んで、両手を大きく広げる。
「おいで、竜ちゃん」
じんと目頭が熱くなる。
唇を噛んで、俺はばーちゃんに抱きついた。
「うあぁぁぁ!」
辛かった。苦しかった。
そんな俺を包み込んでくれるばーちゃんが何より温かくて。
ばーちゃんは俺の涙が見えていないかのように、いつも通りに頭を撫で続けてくれた。
俺はその時、心に決めた。
ばーちゃんを助ける。
もっと、もっとサポートする。
もう二度とばーちゃんが泣かなくていいように。
* * *
12月。
冬の終わりに、ばーちゃんの命も終わった。
夜、静かに息を引き取ったばーちゃんの表情は、驚くほどに穏やかだった。
俺は、ばーちゃんになにかを返せたのかな。
今まで散々慰めてもらって、優しくしてもらって。
俺は、それ以上のなにかを、ばーちゃんにあげることができたのかな。
ばーちゃんが満足そうな顔をしていたって、俺はそんな気持ちにはなれなかった。
悲しみと、苦しみと、後悔と、不安と。
様々な感情が混ざり合って、わけがわからなくなった。
……でも。
今思えば、一番強かった感情は“怒り”だったかもしれない。
葬式に来る、見たこともない人達。
初めて会う親戚の人達。
面倒そうに見える。
頭を下げて軽々しく用意していた言葉を口にする。
こんな時まで、タバコを吸っている。
楽しそうに酒を飲む。
……耐えられない。
「お母さんが亡くなって、寂しくなるわね」
隣の席で、父さんと話している母さんの声が聞こえた。
散々ばーちゃんを怒鳴りつけていたくせに。
「そうだな。……デイサービスにも行かないし、充の受験も大丈夫だろう」
『ドクン』
父さんの言葉に、俺は思わず目を見開いた。
なんだよ、その言い方。
まるで、ばーちゃんが死んだおかげみたいに。
ゆっくりと、2人の方に目を向ける。
嘘であって欲しい。
そう願った。
これ以上2人のことを嫌いになりたくない。
……思いたくない。
“最低な人間”だなんてーー……。
『ドクン』
2人は、目を見合わせて。
「良かった」と。
……笑っていた。
『ガタンッ』
俺は思わず勢いよく立ち上がって父さんのネクタイを掴んでいた。
「ふざけんな!! ばーちゃんが死んで良かった!? ばーちゃんのせいで貧乏だったみてぇな言い方してんじゃねぇよ! なんも知らねぇくせにっ!」
『竜ちゃん、おいで』
『やめて、竜ちゃん。おばあちゃん悲しい』
『だって、母さんが酷いこと言うから……』
『いいのよ。竜ちゃんや、みんなが笑っていてくれれば、それでいいのよーー……』
父さんのネクタイを握る手が震え出す。
目を丸くしている父さんの顔が滲んで行く。
「うわあぁぁぁぁ!!」
父さんのネクタイから手を離し、そのまま泣き崩れる。ずっと俺の体を支配していた怒りは、とめどなく涙となって流れて行く。
……ばーちゃん、諦めないでよ。
母さんと、ケンカするくらい強くいてよ。
俺を置いて行かないでよ。
なんで俺を1人にするの?
あの家で、俺の存在が消された家で、独りでどうやって生きて行けばいいの?
わかんないよ、ばーちゃん。
* * *
「うっく……っく……」
暗い部屋。ひとりぼっち。
寒いよ。
寒くて、凍えちゃいそうだよ。
温めてよ、ばーちゃん。
『ガラッ』
襖の開く音に顔を上げると、そこには充が立っていた。
「……まだ泣いてるのか?」
優しい声でそう言った充は、困ったように微笑んで俺の隣にそっと座った。それだけで安心する。
「充。……俺、別にいらないと思うんだ。充みたいに頭良くないし、結局ばーちゃんを守れなかったし……」
抱えた膝に顔を埋めて呟いた。
もっと、ばーちゃんにしてあげられることがあった筈なのに。
「……守れたんじゃないかな」
充の優しい声が聞こえて、俺は「え?」と顔を上げた。充は、どこか遠くを見るような瞳で、微笑んでいた。
「ばーちゃん、母さんに怒られてから電気の付けっ放しとか少なくなったよな。あれ、竜がやったんだろ」
俺は力なく静かに頷いた。
「ばーちゃん、すごく嬉しかったと思うぞ。じーちゃんがいなくなって、そのショックからかボケも酷くなって。……でも、竜を抱き締めてる時だけは、穏やかな、普通の“おばあちゃん”に見えたよ」
柔らかく微笑むばーちゃんの顔が、俺の脳裏にしっかりと残っていた。
「だから、いらなくなんかないよ。……行こう、竜」
充は俺の頭をくしゃっと撫でて立ち上がり、手を差し伸べた。
「父さんも母さんも、竜のこと心配してたよ。大丈夫、竜もちゃんと愛されてるよ。竜はまだ小学生なんだから、ばーちゃんだけじゃなく、父さんと母さんにも甘えろよ。そんで、いつか俺たちが大きくなったら、いっぱい働いて父さんと母さんを喜ばせてやろうぜ!」
充は、無邪気に歯を見せて笑った。
そんな充に、俺もつられて笑顔になっていた。
「うん!」
元気よく頷いて、充の手を取る。
ばーちゃん。
俺がいつか天国に行ったら、1番に会いに行くから、待っててよ。
その時、俺の記憶の中で、ばーちゃんがいつものように手を大きく広げて微笑んだ。
『うん、待ってるよーー……』




