196. 2度目の春
春の匂いがする、と思った。
懐かしい光景がぼんやりと脳裏に残っていて、授業中にもかかわらず船を漕いでいたことを自覚する。開いた窓からは心地良い風が吹き、麗らかな春を感じさせた。
マイク越しに響く教授の声に耳を傾けながら眠気に耐えていると、やがて大きな講義室に授業終了のチャイムが鳴り響いた。高校時代とは比べ物にならないほど長い授業時間にも慣れ、大学生活もすっかり体に馴染んでいた。
大学生になって2度目の春。
長い長い春休みは想像以上に忙しく、あっという間に終わってしまった。
「高津〜、さっき船漕いでたろ」
隣で授業を受けていた同級生がニッといたずらに笑う。俺は「バレたか」と笑いながら机の上の筆記用具を鞄に詰め込んだ。
「俺たちこれからカラオケ行くけど、高津は先約あるんだっけ?」
「うん。だから、また部活でな」
「りょーかい。明日の練習忘れるなよ」
そんな会話をしていると、奥の席に座っていたもう1人の同級生兼バスケ部員がひょこっと顔を出した。
「先約って確か〜、里宮? だっけ?」
「そうだよ」
「ちょっと有名人だよな。バスケも強くて頭も良くて? それでなんで桜海来たんだろうな」
重い鞄を肩にかけて立ち上がる。
不思議そうに唇を尖らせる友人に、俺は「普通だよ」と自然な笑みを浮かべていた。
「おつかれ」
大学内のラウンジで真っ先に俺を見つけたのは里宮だった。高校の教室より少し広い開放的な空間には充分な席が揃えられ、多くの学生が自由に空き時間を過ごしていた。
静かすぎずうるさすぎずちょうど良いざわめきが過ごしやすく、俺たちはよくこの空間を利用していた。
「よく気付いたな」
思わず笑って、行き交う学生を避けながら里宮の座っている窓際の席に移動する。
「デカいから見つけやすいんだよ」
そう言って笑う里宮の首元では、短くなった黒髪がさらさらと揺れていた。
高校を卒業してすぐ、里宮はあの長い黒髪をバッサリと切った。皆の驚愕に対し、里宮は相変わらずの無表情で一言「気分」と言い放った。
それにしても色々問いただしたいところではあったが、里宮にとってはそれ以上でも以下でもないのだろう。
ショートボブになった髪を見つめていると、視線に気付いた里宮が顔を上げて首を傾げる。
「なんか、すっかり定着したなぁと思って。短いの」
「あぁ。1回短くしたらやっぱり楽でさ。バスケする時は結んだ方が邪魔にならないから長くてよかったんだけど」
小さな手が艶のある髪を梳いて耳にかける。当時は新鮮だった仕草も今ではすっかり日常に馴染んでいた。部活の時には決まって目にしていたポニーテール姿も今では懐かしく思える。
ぶかぶかのユニフォームも背番号のあたりで揺れる毛先も、この先目にすることはない記憶の中の光景だ。
「……どっちも似合うな」
ぽろっと本音を零すと、里宮は「そ」とだけ言って満足げな表情を浮かべた。その様はゆったりとした空気の中でまどろむ猫のようで、今にもゴロゴロと喉を鳴らす音が聞こえてくるようだった。
「んあ、茜?」
ふとそんな声が聞こえたかと思うと、対面の席でぴくりともせずに眠っていた鷹がいつの間にか顔を上げていたことに気付く。その熟睡っぷりに思わず笑いながら「おはよう」と声をかけると、鷹は大きなあくびをしながら「おあよ」と返した。
「これから“デート”だってのによく寝てられるよね」
呆れ顔で嫌味を言う里宮に、鷹はキッと鋭い目になって「うるせ。その前にひとコマあるわ」と噛み付くように言い返した。“デート”は否定しないんだな……と、指摘したい気持ちを押し込めて口を噤む。
騒ぎ立てず静かに応援したい気持ちは山々なのだが、何せ当時から色々ある2人のことだ。首を突っ込みたくなるのも仕方のないことだろう。
「おつかれ〜! リアペ書いてたら遅くなっちゃった!」
タイミングよく明るい声がその場に響く。里宮が「噂をすれば」といたずらに笑うと、「えっ、なになに? 私の話してたの!?」と興奮気味に食いついてくる。
流れるように里宮の対面に座り、「ねぇ〜、なに?」と鷹の顔を覗き込む。「なんでもないって」と適当に手を振る鷹の反応を分かっていたかのようにケタケタと笑う。
高めの位置で踊るツインテールの面影はないが、太陽のように眩しい笑顔は変わらない。
いつもの場所に遅れてやってきたのは、かつて“白校のパワフルツインテマネージャー”と称された里宮の親友、工藤阜だった。
高校の頃からは想像もつかなかったメンツではあるが、大学では自然とこの4人で集まることが多かった。俺と里宮、鷹と工藤で学科は違うが、授業の合間にこうして同じ時間を過ごすことはすぐに定着した。
里宮と同じ大学を受け、そこに鷹も加わり、更に工藤も同じ進路だと聞いた時はさすがに驚いた。スポーツ系の学校が限られていることもあるが、これも一種の縁だろう。
なんだかんだ楽しいこの空間を、俺は存外気に入っていた。他愛もない話をしながらそれぞれ昼食をとり、時間は瞬く間に流れていく。
高校の頃とはまた違う空気の中を、変わらない笑い声が満たしていた。