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黒を被った弱者達  作者: 南波 晴夏
第5章
196/203

194. 最後の手紙

『里宮睡蓮様

 お久しぶりです。お元気ですか。あの頃からもう8年以上経つんですね。高校3年生になった貴方がどんな大人びた姿になっているのか、私には想像もつきません。

 先日、偶然富浦さんにお会いする機会があり、貴方の様子を聞きました。小学生の頃から変わらず優秀で、友人にも恵まれ、毎日楽しく過ごしていると。

 私にこんなことを言う資格はないけれど、純粋に嬉しく思いました。今もバスケを続けていて、エースとして活躍していることも聞きました。嬉しくて、誇らしくて、こんな手紙を書いてしまいました。

 突然こんなことをしてごめんなさい。私の自己満足であることは重々承知していますが、あの頃のこと全てを改めて謝らせてください。

 幼い貴方の信頼を裏切ってしまってごめんなさい。貴方の大切なお父さんを利用するような真似をして。大切な家庭を掻き回してしまって。本当にごめんなさい。あの頃の自分はどんなに強欲で卑怯なものだったろうと、深く反省しています。

 里宮社長も、優しくて温かくて、きっと私の醜さなんて全部お見通しだったのに、とても良くしてくれました。“あの子のそばにいてあげて欲しい”と言われたこと、今でも覚えています。きっと、貴方のことが心配で堪らなかったんだと思います。

 思い返せば、話に出るのはいつも貴方のことで、1日の様子を事細かに共有していました。寂しそうにしていないか、何か変わった所はないか、と。そんな風に愛されているのは少し羨ましかったけれど、大切な人に大切にされている貴方のことを、愛しいと思わずにはいられませんでした。

 今更こんなことを言っても信じてもらえないと思います。私の中に勝手な企みがあったことも、社長と貴方を裏切ったことも事実です。貴方にもどれだけ憎まれているだろうと思います。

 けれど私は、短くも幸せだったあの日々全てを否定したくはありません。ごめんなさい』






 深い記憶の底で揺蕩っている。

 ふわっと長い髪が香る。栗色に染まった毛先が陽に透ける。

 蓮、と懐かしい声で私の名前を呼んで微笑む。


 初めてミニバスの体験に行った時も、振り返れば必ず目が合って、微笑んで頷いたり、小さく拍手をしたりしてくれた。

 忙しい父さんの代わりに授業参観や運動会などの学校行事にも来てくれた。母さんが生きていた時も、体調が悪かったり入院していたりで叶わなかったから、誰かが見ていてくれるのは初めてだった。むずがゆい恥ずかしさもあったけれど、純粋に嬉しかったことを覚えている。


 “おかえり”の聞こえなくなった家で、本を読んだりテレビを観たりして父さんの帰りを待つ時間も、一緒にテレビを観て笑ったり、宿題を見てもらったり、夕飯の支度を手伝ったりする時間に変わった。母さんの好きだった庭の花たちも、ふたりで手入れをして春を待った。

 一緒に泣いたり笑ったり、褒めたり慰めたりしてくれるバスケがどんどん好きになった。


『おめでとう! かっこよかったよ〜!』


『お疲れ様。……次、頑張れば良いんだよ』


『蓮ならできるって!』


『大丈夫だよ』


 ……大好きだった。


 目先の景色が歪んでいく。忘れていた日々の光景が息を吹き返したように頭の中に流れ込んでくる。

 全て、記憶の奥底に閉じ込めてしまっていた。信頼していたことも、楽しかったことも、全て忘れたかった。当時の感情に嘘はないけれど、ただ悲しくて、悔しくてどうしようもなかったのだ。


 あの頃の日々は、確かに幸せで眩しい思い出だった。

 たとえ偽物だったとしても、私が嬉しかったことに変わりはなかった。


 どうしてだろう。裏切られたはずなのに。大嫌いだったはずなのに。

 私に向けてくれた笑顔の中に、本物が混じっていたこと。あの日々を幸せと言ってくれたこと。否定したくないと言ってくれたこと。


 ……その全てが、自分でも驚くほど、ただただ嬉しかった。


「……彩」


 私を裏切った。私を苦しめた。大きな傷とトラウマを残した。

 ……それでも、確かな温もりと共に、バスケをくれたのは彩だった。


「……里宮?」


 聞き慣れた声が頭上で響く。それは月明かりも知らない闇夜に射す一筋の光のように思えた。思考するまでもなく、心が喜んでいるのが分かる。


「高津……」


 伏せていた顔を上げ、その姿をぼやけた視界に映す。

 刹那、私は腰掛けていた階段から飛び下りてその腕に抱きついていた。


「えっ、里宮? どうした……?」


 くぐもったように聞こえる声が、体から直接伝わってくる。細めた両目からはぼろぼろと涙が零れ、乱れた息に喘ぐかのように押し込めていた声が漏れた。涙と共に溢れる感情は際限なく脳を支配し、のぼせるように思考を奪っていく。


 何もかもを無視して、私は子どものように声を上げて泣き続けた。はじめは戸惑っていた高津もやがて大きな手を背中に回して優しく撫でてくれた。握りしめた手紙の存在に気付いたのか、ただ慰めてくれたのかはわからないけれど、その静かな優しさが嬉しかった。


 あの頃の傷が痛むような、痛みを伴いながらも癒されるような、そんな心地がした。手元の便箋がぬるい風に吹かれて揺れる。


『最後にひとつ、これだけは信じてください』


 噛み締めるように、覚え直すように、言葉が温もりを孕んで心に響く。



『私は、蓮に出会えて本当に良かったと思っています。ありがとう。どうか、元気で』

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