193. リミット
心を突く言葉が耳を掠める。
思えば、いつの間にかその声色を再生することはできなくなっていた。目を開けるとそこは教室ではなく、手を上げられる瞬間の光景も気味悪く歪んだ笑い顔も記憶の隅に追いやられている感覚がした。
音もなく泣いた鷹の姿も、真っ暗な目も、気付けば頼りがいのある笑顔に上書きされていた。
あの頃から、波風を立てながらも流れた時間が過去の姿を遠いものに感じさせる。
……あの頃の夢を観ることはほとんどなくなった。
忘れないままでも良い。許せるようになれなくて良い。一生心の奥底で憎んでいたって良い。
いつか、記憶に苦しめられることは少なくなる。
「高津〜! 今黒沢にユニフォーム直してもらってたんだけどさぁ! どこがほつれてたか分かる!?」
控え室に戻るや否や駆け寄ってきたのはいつも通りテンションの高い長野だった。興奮気味に目を輝かせる姿は幼い子どものように見える。それでも、数分前まで似たようなテンションの富浦さんと話していたからか、長野の無邪気さは普段よりいくらか落ち着いたものに見えた。
ユニフォームの裾を持って見せつけるように広げる長野に、目を細めて違和感を探してみるが、特に不自然な部分は見当たらなかった。
「分かんないな」
素直に言うと、「だろ!?」と長野が嬉しそうに跳ねた。
「結構えぐいほつれだったのに気付かなくてさ〜! 黒沢が気付いてくれて助かったよ! そんでめっちゃ器用だし!」
「わかったから落ち着け。さっきから褒めすぎだし」
忙しなく喋り続ける長野の肩に手を置き、呆れたようにそう言ったのは鷹だった。いつもの部活着の上に俺たちと同じジャージを着ている。
「だって普通にすごいだろ! 俺こんなんできねーもん」
ユニフォームの裾をなぞり、長野は相変わらず感心していたが、鷹は「これくらいマネージャーとして当然だろ」と真面目な顔をして言った。そういう細かい努力も本来は胸を張って良いものなのだが、それが当たり前のこととして染み付いている鷹にはいまいちピンとこないらしい。
努力家の鷹らしい反応だが、はしゃぐ長野を見る目があまりに怪訝そうなので、俺は思わず笑ってしまった。
「なんだよ、茜まで」
いよいよムッとした顔を向けてくる鷹に「なんでもないよ」と返し、控え室内のベンチに腰かける。
ふと、「あいつも変わらないよなぁ」と隣に座っていた五十嵐が口を開く。
「試合前からあのテンションで消耗しないのがすごいよな」
うんと腕を伸ばし同調しながら笑っていると、側にいた川谷も「さすが体力お化けだな」と悪戯に笑った。
「そういや、里宮は? 茜一緒じゃなかったのかよ」
不思議そうに問いかけてくる鷹に、忘れかけていた羞恥心がぶわっと込み上げてくる。油断していた所に響くその名前は何よりも強烈な爆弾に思えた。
「……あ、あぁ。工藤と話してる。たまたま会って。もうすぐ戻る、と思うけど」
脳内に浮かぶ言葉を上手く整理できず、ぎこちない話し方になってしまう。すかさず長野に「なんか顔赤くね?」と顔を覗き込まれ、全身が火を吹いたように熱くなる。
「どしたん高津!」
飛び上がって声を荒げる長野とは打って変わって冷静な声で、鷹と五十嵐が「何かあっただろ」と言葉をハモらせる。
そんな状況で、もはや逃げ場などあるはずもなかった。
控え室の隅に固まり、数分前の出来事を全て話すと、まず一番に長野が「そのまま告っちゃえば良かったのに〜」と声を上げた。そんな簡単に言うなよ、と思いつつ、あの瞬間ぽろっと口をつきそうになったのは本当だった。その事実に、きっと俺自身が一番驚いている。
「でもほんと、あそこで工藤が来なかったら……危なかった」
重い空気を吐き出すようにして言うと、「危なかったってなんだよ」と鷹が不満そうな口調で言った。
「いつまでも目で追ってばっかで、このまま終わっていいのかよ。さっさと告えっていつも言ってるだろ」
容赦なく続く厳しい言葉に耳が痛む。鷹の言いたいことは分かっているのだが、いつまで経ってもケリをつけられない自分がいた。
「まぁ、気持ち伝えるのって緊張するしなぁ。そう簡単にできないのも分かるっていうか」
情けなさそうに笑ってそう言った川谷に、「だよなぁ!」と縋り付きながらも、結局川谷がそれを乗り越えた側の人間であることを改めて知らしめられたような気がした。
「ほんと、皆すごいよなぁ……」
情けないと分かっていながら、緩んだ口から零れる弱音は止まらない。川谷も五十嵐も、こんな気持ちを乗り越えて今を手に入れたのだろうか。
何にしろ、ただならぬ努力の成果であることには変わりない。
ふと、腕を組んだまま黙り込んでいた五十嵐が、「タイミングはむずいよな」と険しい顔をして言った。
その場の空気もタイミングも無視して突っ走りそうになった自分を思い出し、再び大きなため息が漏れる。
「じゃあ五十嵐の時はどうだったんだよ。どうやったらタイミングとか分かんの?」
ほとんどヤケクソで尋ねると、五十嵐は意外にも真面目な顔をして「そこしかなかったからだよ」と言った。
「高橋の手術が終わって、退院したら俺たちはあの場所で会うことはないし、また他人に戻るだけだったんだ。そうなる前に、っていうリミットがあったんだよ」
いつになく真剣で重みのある声が響く。珍しく焦った様子で試合会場を飛び出す五十嵐の姿が脳裏をよぎった。そう考えると、自分は随分恵まれた環境にいると思う。
ふいに目線を合わせると、五十嵐は俺の心情を見透かしたかのように言葉を続けた。
「伝えなきゃ終わるって確信があったし、俺にはあとがなかった。でもお前は違う。里宮は明日も明後日も、きっとこれからも俺たちと同じ場所にいる。……だからって、今の関係にあぐらかいてると痛い目見るぞ」
『高津のおかげなのかもね』
目を細めて笑う里宮の姿が浮かぶ。気だるさも鋭さも感じさせない、柔らかな笑顔。信頼した人にしか見せることのない笑顔。もはや見慣れたようなその眩しさは、仲間に対する信頼の証だった。
このバスケ部が、“皆”のことが大好きな里宮にとって、俺は少なからず大切な存在ではあるのだろう。皆とずっと一緒にいたい、と望むからには、その将来には俺の姿もあるはずだ。
五十嵐の言うとおりだった。
俺は里宮が自分から離れて行かないことを知っている。告わないままでいればずっとこの関係が続くことを知っている。それくらいには、俺だって里宮たちのことを信頼している。
だからこそ、俺は信頼と好意を一緒くたにしてあぐらをかいていたのかも知れない。
『このまま終わっていいのかよ』
ついさっきの鷹の言葉が蘇る。
このままの関係で終わりたくなんかない。里宮を、あの笑顔を、誰にも渡したくない。そう思っているからには、このままで良い訳がない。……だから。
……今日が、俺の“リミット”だ。