192. 色褪せても消えない
幾度となく乗り越えてきた緊張感が心臓を締め付けてくる。ふとした瞬間に両腕を掴みたくなるような、呼吸を邪魔されているような感覚が消えない。
……それでも私は、この感覚が必ずしも悪いものだとは思っていない。幼い頃から何度も経験してきただけあって、今の私には対処法も分かっている。
周囲からのプレッシャーを抱えきれないほど小さな体で、逃げ出しては密かに泣いていたことも、今では思い出として受け入れることができる。
こういう考え方ができるようになったのも、大切な人達が居てくれたおかげだ。それに気付くきっかけがスランプだったことは不服だが、私の中で一つの経験になったことは確かだった。
人気のない階段の踊り場に、「緊張するな〜」という阜の声が響く。
「白校の番も結構遅いんだっけ」
「そうだよー。雷校よりあと! だから、ちゃんと観て応援するからね」
そう言って笑う阜に、「うん」と応えて私も微笑む。
いつも通りの阜との会話には不思議なほど安息感があり、全身を縛っていた緊張がするすると解けていくようだった。
ほぅと小さく息を吐き、遠くで揺れる青い葉を眺める。
キリと粟野との顔合わせを終え、私は偶然居合わせた阜と何気ない会話を続けていた。高津と控え室に戻る途中、この階段から阜が下りてきたのだ。雷校の出番はまだ先だし、久々に顔を合わせたからには少しくらい話したかった。皆には高津が言っておいてくれるし、しばらくは外に出ていても大丈夫だろう。
阜の姿が見える直前、高津は私を呼び止めた。何か話したいことがあったのかも知れないが、改めて聞こうとすると高津は「急ぎじゃないから」と言って控え室に戻ってしまった。
それを見た阜が「もしかしなくても私、邪魔しちゃった……!?」と口元に手を当てるので、「何が?」と首を傾げたのだが、「こっちの話」とよく分からないことを言われてはぐらかされてしまった。
なんだかんだ仲が良く通じ合っているような2人に疑問を抱きつつ、私は高津に甘えてひとりこの場に残った。
「そういえば今日、取材の人来てるんだよね? キリさんだっけ」
思い出したようにそう言った阜に、「あぁ」と思わず低い声が出る。高津も心配してくれていたが、あのテンションを受け止めるのには結構な体力がいる。昔も今も世話になっているのは事実なのだが、キリを前にすると生気を吸われるような感覚がするのだ。
同時に、あのテンションにも呑まれないくらいに無邪気だった頃のことを思い出すきっかけにもなる。
「蓮」
過去の記憶に引きずられかけていた思考が止まり、ビクッと肩が震える。顔を上げると、阜は眩しくあどけない笑顔を見せた。
「どこで当たっても負けないからね。お互いがんばろ!」
ぐっと胸の前で作られたガッツポーズがどことなく中学時代を思い出させ、私の心は自然と安らいでいた。
「うん。こっちも負けない」
右手で作った拳を阜の拳に当て、静かに気合を入れ直す。試合とは別のところに意識を奪われそうだったが、阜のおかげで本来あるべき思考に戻ってこれたような気がする。
阜のこういう部分に、私はいつも救われている。
試合まではまだ少し時間があったが、私たちはキリの良い所でそれぞれの控え室に戻ることにした。トレードマークのツインテールを揺らして笑う阜に手を振り、階段を下りた所で、「いたいた! れんれ〜ん」と聞き覚えのありすぎる声が大きく廊下に響いた。
「だかられんれんはやめろって……」と、振り返りながら文句を言っていた声が溶けるように消える。
キリの姿を前にした瞬間、ふと心に影が射したような感覚がした。上手く言えないが、目の前のキリの纏う空気が、いつものそれとはまるで違うように思えたのだ。
正体不明の違和感を抱えながら、「どうした?」と平静を装って尋ねる。
キリは「渡すの忘れてたよ〜」と間延びした声を出しながら何やらウエストポーチをまさぐり、1枚の白い封筒を取り出した。そこには作られたように綺麗な女の字で“里宮 睡蓮様”と私の名前が書かれていた。
「これ……」
何、と私が言うより先に、キリが口を開く。
「れんれん、覚えてる? “菅原 彩”のこと」
いつもと変わらない筈のキリの声が、針のように鋭く感じられる。
その名前を聞いた瞬間、私の心臓はドクンと大きく跳ねた。
視界がぐにゃりと歪み、鉛を飲み込んだように重苦しい喉元には息が詰まり、鼓膜を埋める甲高い音に耐えかねて耳を塞ぎたくなる。
……見ないようにしてきたもの。色褪せても治らない、深い傷。
全てが、栓を抜いたように溢れ出した気がした。