189. 向かう未来と目前の夢
「バナナオレでいい? 高津」
煌々と光を放つ自販機の前で、既に長野から頼まれたコーラを抱えた里宮が言う。
「あぁ、ありがと」
短く礼を言い、俺も川谷と五十嵐から頼まれた緑茶のボタンを連続で押した。
6月中旬、すっかり梅雨の気候にも慣れ、空は暗いが珍しく雨予報の途切れた今日、俺たちは久々に裏庭で昼休みを過ごすことになっていた。
そこで買い出しじゃんけんに負けた俺と里宮はこうして自販機に寄ることになったのだが……。
こんな状況さえ、想いを伝えるチャンスかのように意識してしまっている自分がいた。麻木のことがあってからずっと頭の中を回っている“タイミング”という言葉が、小さな背にかける言葉を余計に悩ませる。
「高津」
振り返った里宮と目が合う。いつもと変わらない無表情がどことなく固いように見えた。
「進路の話なんだけど、決めたよ」
突然の話題に心臓が跳ねる。数週間前に拾った紙切れのことを思い出す。里宮の大きな目がまっすぐに俺を射抜き、久々にその迫力を思い出させられたような気がした。
「私、桜海大学を受験する。どこの推薦も受けない」
「……へ?」
ポケットの中で触れていた塚波大学への出願書類がぐしゃ、と小さな音を立てた。結局返すことができないままだったそれは、どうやら里宮の中で本当の意味でただの紙切れになっていたらしかった。
「……いや、え? 桜海って……」
混乱した頭のまま声を零すと、里宮はふっと柔らかく破顔した。
「高津も桜海目指してるのは知ってる。岡田っちから聞いた。けど、誤解するなよ。ちゃんとやりたいこと考えて選んだ結果だから。……皆がいるからここに残る訳じゃない」
『もし“行かない”って選択をしたとしても、“皆がいるから”って理由で決めるのは絶対にやめろ』
いつか、あの裏庭で言った言葉が蘇る。忘れられているかも知れないと思っていたが、里宮はずっと覚えていて、考えてくれていた。その上でこうして報告してくれたのだと思うと嬉しくて仕方がなかった。
「……ありがとう、教えてくれて」
思わず感謝の言葉を口にすると、里宮は「なんで」と可笑しそうに笑った。
「また同じ学校だな。ま、受かればの話だけど」
「そうだな。よろしく。って、言えるように頑張るよ」
おどけたように笑うと、里宮も頷いて同じように笑った。
ポケットから折り畳まれた出願書類を出し、「そういえばこれ、ずっと返せてなかったんだけど」と広げて里宮に見せる。里宮はぱちぱちと瞬きをして、「あぁ」と気の抜けた声を零した。
「普通に失くしたと思ってた。まぁ、元々岡田っちに返すつもりだったし」
そう言いながらも出願書類を受け取った里宮は、そこに浮かぶ文字を見つめて僅かに頬を緩めた。
「色々振り回されたけど、なんだかんだ考えるきっかけになったし、無駄ではなかったのかな」
憑き物が落ちたような顔でそう言った里宮に、「そうかもな」と静かに言う。
大人達に貼り付けられたタグに悩んでいた里宮が、自分の道を見つけられたことが素直に嬉しかった。またその隣に居られるかも知れないという事実も、当然ながら俺を舞い上がらせた。
頑張ろう。改めてそう思えた。少しくらい不純な動機が混じっていたって良いだろう。
広げていた出願書類を再び折り畳んだ里宮は、それをスカートのポケットにきちんとしまった。
「そろそろ戻るか。待たせるのも悪いし、あいつらにもちゃんと話さなきゃだし」
長野のコーラと俺のバナナオレを持ち直して言った里宮に、「そうだな」と頷いて足を踏み出す。
やがて隣に並んで裏庭に向かう途中、それとなく「なぁ」と口を開く。
「もしかして、里宮のやりたいことってスポーツ心理学とか?」
言うと、里宮はぱっと顔を上げて丸く見開いた目をこちらに向けた。
「よく分かったね」
そう言った里宮に、俺はなんだか可笑しくなって笑ってしまった。里宮らしいなぁ、と思いながら、一年の頃から変わらない里宮のいちごみるくを持ち直す。
暗い雲の隙間から漏れた光が、裏庭に続く階段を薄く照らしていた。
* * *
何より大切な物は、時に牙を剥くことを知った。
意思に関係なく“自分”が揺らぐ。それまで自分を支えてきた物が、初めからなかった物のように崩れ去る。
バスケを失くした私は私じゃなかった。
いくら大変な思いをさせられたって、それでも私の一番はバスケだった。それが遠ざかり始めていることに気付いた時、私は地獄の底に叩きつけられたような心地になっていた。
“私のバスケ”だけが全てだった、あの時は。
「いってきます」
珍しく午前休を取ったらしい父さんに向かって慣れない言葉をかける。今日は部活の朝練でいつもより早い時間なのだが、父さんは当たり前のように玄関に立っていた。
「いってらっしゃい。……これで思う存分練習に打ち込めるね」
そう言って柔らかく笑った父さんに、私も「うん」と頷いて笑う。
「今度の試合、楽しみにしてて。いってきます!」
それだけ言ってドアを閉め、足早に駅へと向かう。しつこく脳の容量を奪っていた問題が片付き、体まで軽くなったような気がした。
「そう。じゃあ、第一志望は桜海大学でいいのね?」
放課後の教室で、いつも通り凛とした空気を纏う辻野の声が響く。しっかりと頷くと、珍しく辻野の口角が緩んだことに気が付いた。
「何?」
「……いえ、偶然なら偶然で、本当に仲が良いなと思ったのよ」
続けて漏れたふふ、という柔らかな笑い声に、「あぁ、高津のこと?」と釣られて笑う。
「岡田っちに聞いてびっくりしたよ。まさか高津も桜海志望だったなんてな」
岡田っちにも一応志望校を報告したのだが、当たり前のように高津の名前が出てきた時には驚いた。大方、私が“高津と同じ進路”を選んだと思ったのだろう。私が高津の進路を知らなかったことに驚く岡田っちのリアクションはかなりオーバーで面白かった。
“甘いんだよ”と口では言ったものの、高津と同じ進路を純粋に嬉しく思っている自分もいた。
「……ほんと、高津らしいよ」
高津の目指す道は、初めから知っていたことのようにすとんと腑に落ちた。素直に向いていると思った。
人の気持ちによく気付いて、自分の気持ちのことも沢山考えてきた高津はきっと、その強みを更に伸ばしていくのだろう。
「何にせよ、進路が決まって良かったわ。興味のある道に進むのが一番だもの」
ふぅと息を吐いて言う辻野に、私は悪戯な質問をぶつけた。
「随分長く勧誘してたけど、全部蹴っちゃって良いの?」
いくつかもらっていた大学推薦の話を思い浮かべながら言うと、「良いも何もないわ」と辻野は肩をすくめた。
「貴方なりに考えた結果でしょう。これ以上教師が言うことなんてないわよ」
あれだけ勧めていたのに、いざ出した答えを否定したりはしない。当たり前のようで、それができる人は意外にも少ない、と私は思う。
こういう所が、進路指導を任される理由になっているのかも知れないな、とぼんやり思った。
「そんなことより」という辻野の声に導かれるように顔を上げる。
「引退もかかっているんだから、次の試合に向けて力を入れないとね」
そう言って口角を上げた辻野に、私も自然と不敵な笑みを浮かべていた。
「当然。まぁ、“引退試合”になんてさせないけどな」
ここで終わらせるなんて口惜しい。
しぶとくこの雷校バスケ部にしがみついて、雷校を全国の舞台に連れて行ってやる。
「期待してるわ」
凍えるような空気は消え、穏やかな印象の強くなった辻野が微笑む。
「素直になったね、美桜」
「どの口が言うのよ。ほら、さっさと練習戻りなさい」
あからさまにため息を吐き、しっしと虫を払うような仕草をする辻野に、私は思わず笑いながら「へ〜い」と適当に返事をして教室を出た。
両手を組んで天に伸ばし、暗くなり始めた曇り空を窓越しに眺める。
……タイムリミットが迫っているのは事実だ。
雷校でのバスケに終止符を打つ前に、私は私にできることをやり切らないと。
「……よしっ」
軽く声を張って気合いを入れ、私は照明の落ちた薄暗い廊下を駆け抜けて行った。




