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黒を被った弱者達  作者: 南波 晴夏
第1章
19/203

19. お星様 〜里宮 睡蓮の過去・前編〜

※文字数を増やしました。

「睡蓮、おいで」


私には昔、母さんがいた。

性格は温厚で、とても優しい。

雑誌出版社の社長である父さんと結婚し、私を生んだ。


母さんのことは今でもよく覚えている。

いつも色々なところに連れて行ってくれて、沢山話をしてくれた。

優しく頭を撫でてくれた。


そんなある日。

まだ5歳だった私に、母さんは言った。


「睡蓮。母さんね、お星様になるの」


「お星様……?」


幼かった私は小首を傾げた。


「そうよ。だから、母さんがお星様になったら、睡蓮が父さんを支えてあげてね」


私の手を優しく握って、語りかけるようにゆっくりとそう言った母さんに、私はまた首を傾げた。


「お星様になったら、もう会いに来てくれないの?」


母さんは悲しげに微笑んだ。

それ以上、何も言わなかった。


私には分からなかった。

“お星様になる”ことの意味も、どうして母さんがそんな悲しい顔をしているのかも。


私には何も理解できなかった。

ただ、お星様になったら、母さんには会えなくなる。

それだけはわかった。


だって私はお星様になれないし、お星様と話をすることもできない。

力一杯抱きしめるのには、ずっと遠い。


「私、母さんのこと好きだよ。だから、お星様になるの、辞めて欲しいの」


それを聞いた母さんは、震える体でただ私を抱きしめただけだった。

やっぱり、何も答えてくれなかった。


それから、特に変わらない日常を過ごした。

休みの日にはみんなで出かけて、遊んで、沢山話して。笑って。


……時間が経つにつれ、だんだんと、理解し始めていた。


“お星様になる”ことの意味も。

母さんが時々見せる寂しそうな顔も。


だけどあれから、母さんは本当に何も言わなかった。たわいない会話をしている時、一度だって“お星様”の話を口にすることはなかった。


だから、もしかしたら全部夢だったんじゃないかと思った。

母さんに言われたことは全部、私が見た変な夢。

そう思っていた。


……それなのに。

小学1年生になった私は、思い知った。

“何もない日常”が、どれだけ大切なものだったか。


今でも、あの日の記憶が昨日のことのように残っている。




* * *




母さんが死んだ日。


私が、「母さん、お星様になるの?」って聞いたら、酸素マスクをつけた母さんは、「そうよ」って、泣きながら笑った。


「ごめんね、睡蓮」


掠れた声でそう言った母さんは、私の頬にそっと触れた。

その指が、驚くほど細く、震えているのに気づいた瞬間、堪えていた涙が溢れ出した。


「やだよ、母さん。いかないで……っ」


母さんの手に縋り付くように泣いた。

この手を離してしまったら、本当に母さんは行ってしまう。お星様になってしまう。

もう二度と、会えなくなってしまう。

そう思って、必死に母さんの手を握り締めていた。


「睡蓮」


名前を呼ばれて、私は顔を上げる。

きっと、酷い顔をしていただろう。

母さんは、私の顔を見て、本当に自然に、いつものように笑った。


「幸せに、」


ゆっくりとそこまで言って、母さんの声が途切れた。


「母さん!」


「百合!」




『どうしよう。私が死んだら、あの子はどうなるの? 何もかも一人で背負いこんでしまうかもしれない。

壊れてしまうかもしれない。

私が、あの子の人生をめちゃくちゃにしてしまう……』


『百合……。そんなことはないよ。百合だって』


『でも、私が死ぬ事実は変わらないでしょう?』



『私、もう少し、生きたかった……』




「母さん!」


大きな声で呼んでも、もう返事をしてくれない。

もう笑いかけてくれない。

おいしいご飯を作ってくれない。

手を繋いで歩いてくれない。


なぜ?


母さんはまだ、ここにいるのに。


「うあぁぁぁぁぁぁ!」


私は大声を上げて泣き叫んだ。

一定のリズムを刻まずに鳴いている機械の音を搔き消すくらいに。

母さんの酸素マスクがゆっくりと外される姿を見なくて済むように。


蹲って、泣き叫んだ。

背中をさする父さんの小さな泣き声を聞きながら。


母さんの手が、だんだんと熱を失っていく。


しっかりと掴んでいるはずなのに、離れて行ってしまうような感覚に、私はわけがわからなくなりながら必死に母さんの手を掴んだ。


ふと、どこからか伸びてきた手が私の手を掴む。

ゆっくりと、それでいて強い力で私の手を母さんの手から引き剥がそうとする。


「〜」


何か言っている。けれど何も聞こえない。


「嫌だ! やめて! 母さんが行っちゃう!」


全力で首を振り、しがみつくように母さんの手に抱きつく。


この手を離したら母さんは行ってしまう。

いなくなってしまう。

そんなのは嫌だ。


母さん。母さん。母さん。


「睡蓮!」


大きな声で、私はハッと目を見開いた。

静かな病室が歪んで見える。


後ろから、誰かが私を強く抱きしめた。

父さんだった。


「母さんはもういないんだよ」


その一言で、フッと、力が抜けた。

その瞬間、私の手から母さんの手が離される。


もう、力は残っていなかった。


もう一度母さんに手を伸ばすことも、母さんと私を引き剥がした誰かに声を上げることもできなかった。


そのまま床に座り込んだ私を、父さんが抱き上げた。

優しく私の涙を拭って、汗をかいた髪を撫でて。


最後に強く抱きしめた。

それからのことを、私はよく覚えていない。




* * *




母さんが死んで、家は驚くほど静かになった。


父さんはきっと私以上に辛いはずなのに、ちゃんと仕事に行っていた。

私も学校へ行った。


母さんが居た頃と、何も変わらない生活を続けた。

ただ、そこに母さんが居ないだけ。

ただ、そこに穴が空いているだけ。


家から帰ると、「おかえり」と声をかけてくれる。

当たり前のことのように、「ただいま」と返す。

そんな会話を、特に意識せずに交わしていた。


だから、気づかなかった。

母さんの「おかえり」がないだけで、こんなにも不安になるなんて。


当然、もうそこに母さんは居ない。

仏壇に、いつもの優しい顔で笑っている“母さん”がいるだけ。


失ってしまったものは、二度と戻らない。






母さんが居なくなって、2年経った。

私は3年生になった。


特に変わったこともなく、父さんも私も、母さんの事から立ち直りつつあった。

思い出してしまうと、やっぱり少し辛いけれど。

それと同時に、暖かい気持ちにもなる。

泣きながら、笑えるくらいには回復していた。


父さんの帰りは毎日遅く、私はダイニングチェアに座って父さんの帰りを待った。

机に突っ伏してぼぅっとしていると、『ピンポーン』とインターホンが鳴った。


私は急いで立ち上がり、喜んで鍵を開けた。

父さんだと思ったのだ。


「あ、はじめまして。里宮……睡蓮ちゃん?」


その女を見た瞬間、私は凍りついたように硬直した。


小さく、整った顔。二重の遠慮がちな瞳。

長い栗色の髪には軽くウェーブがかかっている。



私にとって、“知らない女”がそこに立っていた。

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