186. 過去の君、今の君
何度考えても、周りが答えを見つけていっても、恋心なんて少しも理解できなかった。
『ちゃんと答えてやって欲しい』
……なんで高津が、あんなことを言ったのか。アサギとはまだ関わりの浅い筈の高津が、どうして一後輩の恋路まで気にするのか。
私と違って恋が分かる高津には、もしかしたらアサギの姿が自分と重なって見えたりしたのかも知れない。
……ここで言いようのない嫌悪感を抱くのは、あまりにも狡い高津への甘えだ。
* * *
懐かしい匂いがする。
今も似た環境で過ごしているとはいえ、やはり中高の体育館とはまた違った空気があった。小3の頃足を踏み入れた世界で、今の私を作っているのは間違いなくこの場所だった。
栗色の髪から覗く朧げな笑顔と優しい声が脳裏を掠める。
時に笑って、時に泣いて。あの頃の懐かしい喧騒が今も聞こえてくるような気がした。私が仲間たちとバスケを追いかけて過ごした小さな青春時代が蘇る。
随分久々に訪れたミニバスチームの体育館で、今も馴染み深いドリブル音が響いていた。
時刻は午後8時過ぎ。今日もここで楽しみながら練習をしていたであろうちびっこ達の姿はどこにも見当たらなかった。
広々とした体育館にたったひとつのドリブル音がやけに大きく響く。元々細い目を鋭く光らせ、ゴールに向かってボールを放つ姿はあの頃と何も変わっていないように思えた。
ふと、初めて交わした会話を思い出す。
「おい」
人工の光に照らされた空間の中、遠慮のない声が反響する。見事にゴールネットを通ったボールが、存在を主張するかのように大きく跳ねながら転がっていく。
「お前、バスケ嫌いだろ」
ゆっくりと振り返ったアサギは、驚きもせず無表情のまま私を見ていた。
「……『好きじゃないだろ』、ですよ」
「細かいやつだな」
呆れ気味に言うと、アサギはふっと口元を緩めて笑った。
数週間ぶりの会話がこれなのだから、余計馬鹿らしく思えてしまう。気付いた時には私も釣られて笑っていた。
……きっと簡単なことではないのだろう。アサギの中に“そういう”感情がある限り。
……いや、どちらにしろ私たちはあの頃と同じではいられない。ミニバスを卒業して6年。お互い変わったことの方が多いだろう。
変わることは悪いことじゃない。今の私にははっきりとそれが分かる。だからこそ私たちは、時折あの頃に戻って笑い合うことが出来るのかも知れない。
「アサギ」
足元に転がるボールを拾う。蛍光灯の光を反射した瞳が輝く。
鞄を投げ捨て、私は姿勢をぐんと下げた。
「絶対止めろよ」
ダンッと足を踏み出すと同時に、手元から離れたボールを床に打ちつける。少しも遅れることなくアサギの足が動いたのを見て、私は自然と口角を上げていた。
今ではもうつむじを見ることも叶わない身長差も、体格差も感じない。今だけはアサギがあの頃のように幼い後輩に見える。どれだけ敵わないと言われようと、いつもアサギは本気でボールを奪いに来た。
『卒業しても、また──……』
……慕ってくれて、嬉しかった。
今よりずっと面倒臭いやつだった筈の私を追いかけて、頼りにしてくれて。……だからこそ私は、ショックだったのかも知れない。アサギの気持ちから目を逸らしたままでいたかったのかも知れない。
部活で走り回った後の足が悲鳴を上げる。行く手を阻む身体を避けながら、全身に染み付いた感覚が自然と手足を動かすような錯覚に陥る。
『今のお前に強いも弱いもねぇよ』
……そうだ。結局あれから相手をしてやっていなかった。アサギとの1on1は数年振りだ。懐かしいような、昨日もこうしてバスケをしていたような、不思議な感覚に包まれる。
疲れ切った腕に痺れるような痛みが走る。時折見えるゴールを見失わないよう目を凝らしながら、訳もなく泣きそうな気持ちになる。
アサギがつまらない冗談を言えるほど愉快な人間じゃないことは知っている。けれど、私は信じている。その感情を抜きにしても、アサギが私のバスケを見ていてくれたのは、私のプレーを尊敬してくれていたのは、紛れもない事実なのだと。
ディフェンスを振り切って放ったシュートがゴールに吸い込まれていく。スパッと心地良い音が響くと、途端に互いの荒い息だけが聞こえるようになる。膝に手をついて俯くアサギは、そのまま顔を上げなかった。
「……俺、バスケが好きです」
乱れた息のせいか、震えた声が鼓膜を揺らす。
「レンセンパイのことが好きです。本当に」
「……うん」
分かっている。アサギの気持ちも、私がこれから言うべきことも。
「すぐ信じなくて悪かった。……でも私は、アサギの気持ちには応えられない」
『麻木のこと、真面目に考えてやっても良いんじゃないか? ……いや、俺はあいつがずっと里宮のこと好きなの知ってたからな。付き合ってから好きになることだってあるし、何も悪いことじゃねぇよ』
今まで私の恋愛事情に口を挟んだことのなかった五十嵐に言われて、正直私は混乱した。誰の気持ちにも応えられる気がしなかったから、恋愛の“好き”が分からなかったから、私は今まで断り続けてきた。
それが、経験しなくては分からない感情だなんて思えなかった。思いたくなかった。私だって普通に、皆みたいに、自分の力でそれを見つけられる筈だと思った。
誰かの恋心を利用するなんてことはしたくない。ましてや、大事な後輩の気持ちを踏み躙ることなんて。
「……分かってました」
一つ息を吐いて顔を上げたアサギは、どこか諦めたように笑っていた。センター分けにされた前髪のおかげで顕になった額には汗が浮かんでいる。
思えば、髪型一つだって変化の証だった。整えられた眉も額も、あの頃目にすることはなかった。
こんなに優しく笑うようになった“今のアサギ”を、私はその時初めて認識出来たような気がした。