185. 伝えるべきこと
「やっぱり高津に相談したんだな、あいつ」
小さな窓から射し込む夕陽に照らされた更衣室。黒い部活着を脱ぎながら、五十嵐は平然とそう言った。
放課後に行われる個人面談には部活を抜け出して行くしかなく、後半ほとんどの練習に参加出来なかった俺は見事に五十嵐と話すタイミングを逃していた。
「俺も麻木のことはよく知ってるからな。不完全燃焼じゃ癪だろうと思っただけだよ」
五十嵐の言いたいことは分かる。確かに、あれじゃ言いたいことを言い切れた感じでもないだろうし、里宮もまだ心の奥底では麻木の気持ちを疑っているのかも知れない。
……でも、だからって勧めることはないじゃないか。と、勝手な感情の都合で思ってしまっている自分がいる。
「それに、これくらいで簡単に受け入れるようなやつじゃないだろ、里宮は。あいつはちゃんと考えて決めるよ」
「……まぁ、そうだろうけど」
「そう拗ねんなって。可愛い後輩を心配してるだけだよ。……まぁ、煮え切らない誰かさんへの当てつけでもあるけどな」
ニヤリと悪戯な笑みを向けられ、思わず全力で顔をしかめる。
「やっぱり俺への当てつけじゃねぇか!」
「あはは、高津くんてば顔こわーい」
裏声を出して楽しそうに笑う五十嵐の額に、渾身のデコピンをくれてやる。苦笑しながら五十嵐を注意する川谷を横目に、ぼんやりと里宮のことを考える。
俺はここで堂々と五十嵐のことを叱れるような立場じゃない。いつまでも煮え切らない態度をとっているのも事実だ。
“皆と居たい”と、“1人になりたくない”と素直に話した里宮を前にした時、俺のこの気持ちは絶対に知られてはいけないと思った。何がなんでも隠し通して、里宮の望む形を保っていたかった。それが里宮のためなのだと思っていた。
……けれど、信頼を裏切ってまで傍に居ることが本当に里宮のためになるのだろうか。
「……まぁ、真面目な話、気持ちがある以上離れる前に告うべきだろ。まだ分からないとはいえ、あいつが遠くに行く可能性だってあるんだから」
「……分かってるよ」
里宮が、遠くに。
今はまだ想像もつかないけれど、あと1年もしないうちに卒業の日はやってくる。里宮が東京を出てしまう可能性だって否定できない。当然、俺には止める権利もない。
「高津なら案外上手くいきそうだけどな〜」と楽観的に言う長野に、そんな自信もない俺は曖昧に笑って流すことしか出来なかった。
* * *
初夏の夜風が熱を持った髪の隙間を通っていく。
部活帰りに真っ先にシャワーを浴び、こうして自室の窓を開け放っている時間が、俺は好きだった。
冬だと凍え死んでしまうし、真夏は夜でもクーラーなしでは過ごせない。梅雨が始まれば雨ばかりで蒸し暑いし、こうして涼しげな風を感じていられるのはまさに今の時期の特権だった。
ぼんやりと見える三日月を眺めながら、ふと五十嵐の言葉を反芻する。
『あいつが遠くに行く可能性だってあるんだから』
……まだ、分からない。里宮からその話を聞いてから特に進路の話はしていない。
無理に話題を避けている様子はないが、里宮が何を考えているのか俺には全く分からなかった。
……麻木のことだって。俺の知らない所で、里宮は沢山考えて、既に答えを出していたのかも知れない。
小さく息を吐いて窓を閉めると、机の上に置いていたスマホが軽い着信音を奏でた。一瞬里宮かと思ったが、そこに表示されていたのはその友人の名前だった。
「もしもし。工藤?」
「あ、高津くん? 今大丈夫?」
「うん」
ベッドに浅く腰掛けて答える。いつも通りの元気な声だった。……だから、油断した。
「ねぇ、蓮が後輩に告られたってほんと?」
「ん!?」
あまりに急な質問だった。おかげで不意を突かれた俺は見事に咽せた。息を整えてから、平静を装って「ほんとだけど」と答える。大方里宮から聞いたのだろうが、なんで俺に確認する必要があるんだ……?
そんなことを思った矢先、「まさか高津くん」という工藤の神妙な声が聞こえた。嫌な予感がする。
「まだ蓮に告白してなかったの?」
素朴な疑問と呆れの入り混じった声が、グサッと心臓に突き刺さる。黙ったままでいると、それを肯定と取った工藤が「うわぁ、それで後輩に先越されちゃったんだ……」と心底哀れんだ口調で言った。「うぅ」と喉元から言葉にならない呻き声が漏れる。
「皆が皆工藤みたいに告白できると思うなよ!」
思わず駄々をこねる子どものように声を荒げると、「ごめんって」という楽しげな笑い声が聞こえた。
工藤が勇気を振り絞って気持ちを伝えたということは分かっているのだが、今となってはその余裕さが羨ましく思えてしまう。
「まぁ、それは置いといて。……蓮のこと、まだ好きなんだよね?」
自分のことのように真剣な工藤の声が響く。その言葉は相変わらず直球で思わず笑ってしまった。
「そうだよ」
迷うことなく肯定する。電話口の向こうで息を呑む音が聞こえた気がした。
「夏の引退試合も遠くないし忙しいだろうけど……。卒業するまでには、伝えてあげて欲しいな」
「……うん」
工藤もきっと、里宮の事情を知っているのだろう。もしかしたら、俺たちの知らない“答え”も、既に知っているのかも知れない。
「高津くんに限って、疎遠になることはないと思うけどさ。毎日会える生活ではなくなるわけだし」
静かな声がやけに現実味を帯び、身体の芯を冷やしていくのを感じた。
誰がどの道を選ぼうと、この“日常”が終わってしまうことに変わりはない。学校という空間はちょっとした奇跡なのだ。
情けないほどに女々しい俺は、“最後の日”から目を背けることしかできず、「そうだな」と小さな声で返すのがやっとだった。
ベッドから立ち上がり、机の上に広げられたプリントに目を落とす。
それは昼休みに里宮のポケットから落ちた、塚波大学への出願書類だった。