183. タイミング
『好きなんすけど。付き合ってくれません?』
後輩の衝撃告白から早3週間。当人は間に受けていなかったが、麻木は恐らく本気だろう。だからこそ、里宮にもそう伝えた。
『アサギとちゃんと話して、ちゃんと……答えてやって欲しい』
『軽い気持ちで言った訳じゃないと思うんだ』
あの時の言葉は本心だった。麻木の気持ちも里宮の気持ちも、それぞれ納得のいく形で結論を出せたら良い、と。……でも。
あの時、車窓に流れる景色を眺めながら、思い浮かべるのは里宮の姿ばかりだった。本人はすぐ隣に、手の届く距離にいる筈なのに。
この手で、その細い手首を掴むことが。好きだと、たった一言口にすることが。あまりに難しくて、やるせなくて。それを簡単にやってのけた後輩に訳もなく嫉妬して。
思い返せば思い返すほど、情けなくて大きなため息が漏れた。
「馬鹿だなぁ……」
俺はこの先どうするのだろう。
……里宮は、どうするのだろう。
* * *
時は3週間前、麻木の衝撃告白の日に遡る。
ものすごい剣幕で体育館を追い出された麻木は、生真面目に里宮の言いつけを守って外周していた。むしろ体育館に残された部員たちの方が気の毒に思えてしまうほど、あの後の里宮は荒れていた。
もともと溜め込んでいたものもあったのだろう、その動きは珍しく乱れ、ドリブルやシュートも力任せになっていた。少しでもミスをすると、里宮の琴線に触れることを恐れて場の空気が凍る。
他の部員に当たることこそなかったが、それもかなり抑え込んだ態度なのか、その鋭さは視線やオーラに出てしまっていた。それも強烈に。そんな里宮のことをとりあえず五十嵐たちに任せ、俺は体育館を出た。丁度正門の前を通りかかった麻木の姿を見つけ、急いで声をかける。
「麻木!」
俺の声に反応してピタリと動きを止めた麻木がこちらを振り返る。この短時間で何周したのか分からないが、その頬は赤く、額に浮かぶ汗が遠目からでも見て取れた。部活着で汗を拭う姿に、場違いにも“整った顔だな”なんて思ったりした。
「もう戻っていいよ」
「でもまだ……」
「さすがに里宮も本気で言ってないと思うし、ここで体力消耗した方がキレられると思うぞ」
苦笑しながら言うと、麻木は素直に体育館の入り口まで戻ってきた。生意気に見えて先輩の言うことはしっかり聞くあたり、やっぱり里宮に似てるな、と思う。
「ちょっと戻る前にそこで話そう」と麻木を外階段に誘導し、2人揃って腰を下ろす。
「話したくなかったらいいんだけど。なんで、あんなこと言ったんだ?」
「本気っすよ」
間髪入れずに麻木が言う。まぁそうだろうな、と俺は詰まった息を吐き出した。あの状況とセリフ、まさに勢い任せ、といった雰囲気のおかげで里宮には全く伝わっていないようだったが……。
端から見ても大分里宮に懐いている麻木のことを考えると、少なくとも全くの嘘ではないことは予測できた。
「さっきレンセンパイに言ったことは、全部本気っす」
長い指を絡ませ、呆然とどこかを見つめながら言った麻木は、とても自分のことを話しているようには見えなかった。
「……それなら尚更、タイミングとか……」
言いかけた俺の声を遮って、麻木が言う。
「そんなん、ないんすよ。なかったんすよ。今まで俺、ずっとレンセンパイのこと好きだったんです。それでも、タイミングなんてなかったんです。……だから、なんか。さっきのは、言おうとして言った訳じゃないっすけど」
ふと言葉を切った麻木は、ぼんやりと暗くなり始めた空を見上げた。初夏の風が、姿を変えた桜の木を揺らしてざわざわと葉音を立てる。その瞳に映る思い出の中には、俺の知らない里宮の姿が沢山あるのだろう。
「まぁでも、後悔はしてないんで」
ややあってそう言った麻木は、膝に手をついて立ち上がった。センター分けにされた前髪が風を受けてさらさらと踊る。
「すんませんした、迷惑かけて」
それだけ言うと、麻木はそのまま体育館に戻って行ってしまった。困った後輩を連れ戻すつもりが、俺の方が取り残される形になってしまった。深くため息を吐き、麻木の言葉を反芻する。
『タイミングなんてなかったんです』
「タイミング、かぁ……」
自分で言っておきながら、それはむしろ俺の方が見失っているものだった。
出会って2年。好意を自覚して約1年。タイミングどころか、俺は里宮に気持ちを伝えようとしたことすらなかった。伝えれば失ってしまうものにばかり目を向けて、里宮から向けられる“仲間”としての信頼を裏切り続ける方を選んだ。
皆のためじゃない。もしかしたら、里宮のためでもないかも知れない。里宮の望む関係を壊したくなくて、言わない覚悟を決めたつもりだったのに。
俺は、自分が里宮の傍にいるために。どんな形であれ、ここまで築いてきた繋がりを維持するために、口を噤んだままでいるのかも知れない。……本当に、タチが悪い。
せめて麻木のように、何かしらの意思表示ができれば何かが変わっていたのだろうか。
ぼんやりとそんなことを考えて、すっかり緑一色になった桜の木を眺める。この桜が次に咲き乱れる頃には、嫌でも結論を出さなければいけないのだろう。
告ったって告わなくたって、その先なんて考えたくもない話だった。