180. 命の確率 前編
『こんな所で会うなんて』
よそよそしく、どこか困ったような笑い顔が見える。
『……もう、会いたくなかったのに』
震える声が聞こえる。思わず伸ばした手は呆気なく払われる。
『生きてる意味なんて分かんないよ』
歪んだ顔を両手で覆う。
……違う。違う。こんな筈じゃ。
『どうせ明日には死んじゃうんだよ。……だから』
待って。
『バイバイ』
霧に霞んで見えなかった顔が、その時ばかりははっきりと映る。優しい笑顔で軽やかに手を振り、身を翻す。その背が白に溶けていく。焦燥に駆られて手を伸ばす。
死ぬな。死ぬな。死ぬな。死ぬな。
死んじゃダメだ!
叫んだ声が空白に呑まれ、意識は現実に引き戻される。
荒い息を吐きながら、しばらく部屋の静寂に身を任せる。震える両手で顔を覆い、五十嵐修止は深いため息を吐いた。
* * *
よく晴れた薄青い空を見上げ、牧歌的な空気に身を委ねる。そんな穏やかな朝も、校門をくぐるだけで大抵賑やかになるものだ。
悠々とあくびをしながら、数ヶ月前とは違うルートで教室へ向かう。廊下を歩くうちも、見慣れない顔とすれ違うことが増えた。こういう小さな違和感が、新しい生活を嫌というほど知らしめてくるのだ。
ちょうど階段を上り終えた時、制服のポケットに入れていたスマホが控えめな着信音を発して震えた。その相手が誰なのかは確認するまでもないので、すぐさま通話を押して耳元にかざす。
「もしもし」
「あ、五十嵐くん?」
電話口の向こうから聞こえたのは高橋の陽気な声だった。その一瞬で、朝から全身を支配していた緊張が一気に解ける。教室へ続く廊下と反対方向にある視聴覚室の前に移動しながら、小さく安堵の息を吐く。
「朝電話気付かなくてごめんね。どうかしたの?」
「あ〜……」
正直、元気そうな高橋の声を聞いただけで当初の目的は果たされているのだが……。
“元気そうで良かった”の一言を残して電話を切ってしまうにはいささか名残惜しい。
「……最近話してなかったから、久しぶりに電話してみようと思って。それにしても朝イチは早すぎたな。悪い」
「いやいや、全然大丈夫だよ! まぁ実際寝てたけど……ってのはどうでもよくて! ……確かに、久しぶりだね」
弾んだ声、照れ隠しに早くなる口調。聞き慣れた声が心地良い。そのまま他愛のない会話が続くものと思っていた俺は、数秒後に己の油断を後悔することになる。
「そういえば昨日、定期検診行ってきたんだけど」
突然の話に、ドクンと大きく心臓が跳ねる。夢で見た後ろ姿がフラッシュバックする。そんな俺の気持ちを知る由もなく、高橋は明るい声で話を続けた。
「めちゃくちゃ健康だったよ〜! 再発もなし!」
軽やかな声が響き、全身の力が抜ける。壁にもたれかかりながら深く息を吐いていると、「あれ、五十嵐くん?」という間の抜けた声が聞こえる。大方反応の遅さを不思議に思っているのだろうが、心臓が暴れまくっていて声が出せない。
朝から心臓止める気か!
「大丈夫? お腹痛いの?」
変な勘違いをし始める高橋にツッコミを入れる余裕もなく、深呼吸をして息を整える。
「……いや。良かった。何ともなくて」
心から思ったことをそのまま伝えると、高橋は少し間を置いて「うん。ありがと」と柔らかく言った。
やけにリアルだったとはいえ、ただの夢にここまで振り回されるなんて情けない話だ。そんなことを思いながらも、高橋が最近のやらかしを面白おかしく語ったりするので、俺は柄にもなく爆笑してしまっていた。
* * *
立ち上る空想は仇でしかなかったのだ。人が望み、歩む道は一つだけで、その形を変えることは不可能である。誰もがそう思っている。どうしてこんなにも難しいのだろう。私の空想は、私の道は、私の指針は──……。
「悪い、俺ちょっと図書室行ってくる」
聞き慣れた声に釣られて顔を上げると、そこは普段どおりクラスメイトたちが談笑する昼休みの教室だった。頭にかかっていた霧がすっと晴れ、自分の存在を思い出す。
早くも教室を出ようとする川谷の背をぼんやりと見送りながら、そういえば図書室で借りたい本あったな、なんて考えていると、「せっかく同じクラスになれたっつーのにー」という長野の不満気な声が聞こえてきた。
すぐさま「駄々っ子か」とツッコミを入れ、話したいモード全開の長野のために栞を挟んで本を閉じる。それから長野の姪の話で盛り上がっていると、ポケットに入れていたスマホがピロンッと軽快な通知音を響かせた。
「悪い、俺」
軽く片手を上げてLINEを開く。“舞”という一文字が目に入るのと、長野が「彼女!?」と声を上げるのとはほぼ同時だった。「うん」と答えながらトークルームを開くと、「まじで!?」と謎に驚いた様子の長野が肩に顎を乗せて画面を覗き込んでくる。脳内に尻尾を振る犬の姿が浮かんだ。
「なんだって?」
「今日、会おうって」
“今日会える?”という文面を読み上げるように答えながら、“うん”と短く返信する。
「そっか〜! 良かったな! どこ行くん?」
当然のようにそう聞かれて、少しだけ返答に困る。俺たちの“会う”は、ただ本当に会って話すだけのようなもので、俗に言うデートとは少し違うのだ。もちろん休日に計画を立てて出かける“デート”だってするが、平日の放課後にそんな遠くへは行けない。
「さぁ。どっかそのへん出歩くだけだよ」
テキトーに言いながら、そういえば高橋はこんなんで本当に楽しいんだろうか、と不思議に思う。話しているだけで楽しいのは本当だし、高橋もいつも笑っているからあまり気にしてこなかったけど……。もう少し考えてみてもいいかもな。
そんなことを考えていると、いつの間にか時計は昼休み終了時刻を示していた。チャイムもすぐに鳴るだろう。
さっきまでのテンションはどこへやら、ぼんやりと空を見つめる長野の額を軽く小突く。
「どした? ぼーっとして。もう授業始まるぞ」
やっとこちらに目を向けた長野が、ぼけっとした顔のまま「弟子入りさせてください」なんて奇妙なことを言ってくるので、「他あたって」と丁重にお断りする。大体、俺は何の師匠なんだよ。
長野の謎言動にはとっくに慣れていた筈なのに、込み上げてくる笑いを抑えきれず、俺は自席に戻りながら小さく笑ってしまった。
* * *
“委員会で学校を出るのが遅れる”と高橋から連絡があったのは、終礼が終わってすぐのことだった。今日会うのが難しいようなら後日でも良いと思ったのだが、忙しいのか高橋からの返信は途切れてしまった。
そんな訳で、暇を持て余した俺は一人で図書室に入り浸っていた。放課後の図書室は好きだ。昼休みに仕方なく、といった感じで時間を潰す人間のいない静かな空間は居心地が良い。カウンターで本を読む図書委員以外はガリ勉か本の虫。後者には特に親近感が湧くし、学年も名前も知らない生徒でも自分の好きな本を読んでいたりすると勝手に嬉しくなってしまう。
淡い蛍光灯の光に包まれた空間で本の温かさみたいなものを感じながら、人のいない方へ進んで静かに腰を下ろす。
読み途中の本を開いたところで、丁度好きな文章だったことを思い出した。ここがこの物語の軸だろうな、と自然に感じられる場面。
結局は、どんな道を辿っても辿り着きたい未来は同じってことなんだろう。いや、正解なんて分からないけど。
小さく息を吐き、ふと思考を巡らせてしまう。“辿り着きたい未来”がまだ分からない人は……。俺は、この文をどう受け取れば良いのだろう。
その時、すぐ近くでガタ、と物音が響き、すっかり自分の世界で考え込んでいた俺はビクッと身体を跳ねさせてしまった。暴れる心臓に手を置き顔を上げると、どういう訳だか目の前には担任の辻野美桜が素知らぬ顔をして座っていた。
これにはポーカーフェイスに定評のある俺も目をまん丸くしてしまった。
「五十嵐くん」
「うぇ、はい」
いや声かけてくるんかい。驚きすぎて変な声出たわ。
まぁ普通に考えて用事もないのにこんな目の前に座らないか……。頭の中で状況を整理していると、「今時間ある?」とツノが……。辻野先生が口を開いた。
「まぁ、はい」
「そう。丁度良かった」
丁度良かった?
「会議の時間までまだ20分あるのよ。でもテストの採点とかするにしては時間が足りないし……。要するに、暇なので個人面談をします」
「あ、はい。……え?」
思わず普通に返事したけど、こんなフランクに喋る人だったのかこの人……? 辻野先生の印象、と言われれば思い浮かぶのはやっぱり“ツノ”よろしく鬼の形相で、冷徹でキビキビで……。
あ、ダメだ。まじでこの人は意味分からん。
疲れているのか、少し考えただけで俺の頭はパンクしてしまいそうだった。普段から人の本性を見抜いたりするのが得意だと自負しているだけあって、強敵が現れると軽くパニックを起こしそうになる。
そんなこんなで、暇を持て余した担任による突発的な個人面談が始まったのだった。




