179. 揺らぐ天秤 後編
生憎の曇り空。参考書から目を離し窓の外を眺めると、サッカー部やテニス部の部員がちらほらと現れ準備を始めているところだった。
先輩たちが来る前に急いで準備をする。その習慣が今では懐かしく思えた。
いつの間にか先輩になって、いつの間にか受験生になった。中学生や小学生の時よりずっと時間の進みが早い気がする。時の流れはいつだって等しいのに。
このまま何をせずとも、いつの間にか大学生になって、いつの間にか社会人になる。そんなことはありえない訳で。
俺たちは道を選んで歩き出さなくちゃならない。いつか目指す未来に辿り着くために。
「川谷くん」
数十分前にも教室で聞いた声が鼓膜を震わせる。進路相談室の入口に立つ辻野先生は珍しく息を切らしていた。
「遅くなってごめんなさい」
「いえ、そんな、急がなくても……」
慌てて手を振りながら答えるが、先生はどこか自分を責めるように深く息を吐いた。目の前の席に先生が腰掛けると、呼応するように背筋がピンと伸びた。
「川谷くんはもう受験する大学は決めてるのよね」
「はい。一応、自分なりに過去問とかも解いてみたりしてて……」
言いながら、ガサガサと手元のプリントを漁る。“進路の話”で呼び出されたこともあり、受験関係のノートや資料は用意していた。
案の定辻野先生から伸ばされた手に、過去問の解答用紙を渡す。数秒黙り込んで目を通していた先生は、俺に用紙を返しながら「順調ね」と言った。
「正直、この調子で行けば合格は堅いと思うわ」
その言葉に、思わずぽかんと口を開けてしまう。鬼ほど厳しいと有名な辻野先生の口からそんな言葉が発せられるなんて思ってもみなかったのだ。
「いえ、そんなことないです。自分なんて、まだまだ……努力が、足りなくて」
思わず、考えるより先に口が動いていた。確かに手応えはあったけど、それだけで“合格が堅い”なんて思えなかった。そんな俺の気持ちを見透かしたように先生が言う。
「あなたはもっと自分を客観視した方が良いわ」
ゆっくりと手元から目線を離したその瞳が、まっすぐに俺を射抜く。
「過去問をこれだけ解いているなら分かる筈よ。自分がどれくらいのレベルに立っているか」
目線が、言葉が、自分を肯定してくれている筈なのにどうしてか鋭く見える。そんな自分に違和感を感じた瞬間、気付くと俺は目を逸らしていた。
視界の端で、先生が小さく息を吐く。
「何も油断させようとしている訳じゃないの。ただ事実を言っているだけ。……これだけの実力があれば、もっと上を目指せる」
語りかけるような声に、思わず勢いよく顔を上げる。そんな俺に、先生は鋭い目を微かに細めた。
「あなたはいつも、誰かにそう言って欲しそうに見えた」
ドクン、と心臓が大きく跳ねる。数分前に感じた違和感の正体が形取られていく。自覚すらしていなかったのに、どこかで“痛いところを突かれた”と思っている自分が確かにいた。
「あなたは自己評価が低い“フリ”をしている。本当は自分の実力も大学のレベルもちゃんと分かっているんでしょう。将来のためにレベルの高い知力を身に付けたいと、あなたなら思っている筈よ。……あなたが今考えている大学の中に、その参考書の知識まで必要な大学はないわ」
釣られるように参考書に目を移し、膝の上で拳を握りしめる。
辻野先生の言うとおりだった。この参考書は、第一志望の大学受験でも、第二希望の大学受験でも使わない。……じゃあ、一体、何のために? どうして俺はこの参考書をここまで読み込んでいた? ただの趣味? 将来のため?
……受験のため?
黙り込んでいる俺から目を離すことなく、辻野先生はただ嘘のない瞳を向けてきていた。その瞳に、自分自身さえ気付いていないところまで見透かされているような気持ちになる。……いや、実際そうだったのだ。この人は俺すら気付いていなかった俺の心情に、気付いた。
鼓動が早くなっていく。今すぐこの場から逃げ出したい。そうしなければいけない気がした。そうしなければ、俺は。俺は。辻野先生の唇がゆっくりと動く。
……気付きたくなかったことに、気付いてしまう。
「一体、何をそんなに迷っているの?」
* * *
一時期、目標にしていた大学があった。
正直俺の学力なんかじゃ到底手の届かない場所だ。届かないからこそ、見上げることで自分を奮い立たせていた。
その道に進むと決めてから、俺の決心が鈍ることはなかった。だから、その時出来ることは何だってしてきた。第一志望の大学に進学出来る以上の学力を身につけることだって、叶えたい夢を考えれば苦しいばかりではなかった。
進みたい道を確実に歩むための努力。夢を見つけた日から吸収し続けてきた知識。その結果、目標が段々と近くなっていることには気付いていた。
……辻野先生の言うとおり、俺は“自己評価が低いフリ”をしていたのかも知れない。そうしたままでいたかったのかも知れない。
いくら努力してきたとは言え、全てが報われるなんて思っていない。夢が叶うかどうかなんて今は分からない。積み重ねてきた努力がどこまで通用するかなんて分からない。
そんな世界に飛び込んで行ける勇気も自信も、俺にはない。
……大切なものを天秤にかけることになるなら、尚更。
「健治くん」
緩やかな沈黙の中に声が落とされ、ゆっくりと顔を上げる。
辻野先生との話が終わり、俺は香澄の家に来ていた。テストが近いから一緒に勉強しよう、と誘われたのだ。
出張があるとかでいつも以上に早い足取りで離れていく先生の背をぼぅっと見送りながら、香澄の誘いに曖昧に頷いたことを覚えている。
家に着くまでの他愛ない会話も、今目の前に広げている物理の公式も、何一つ頭に入って来ない。そんな訳で全く集中できていなかった俺は、香澄の小さな声かけにもすぐに反応した。
「どうしたの?」
正面に座ってテスト前の課題を進めていたらしい香澄は、少し照れたように身をよじった。
「邪魔しないから、そっち行ってもいい?」
俺の隣を指さして控えめにそう言った香澄がかわいくて、俺は思わず笑いながら「どうぞ」と応えた。香澄はパッと花が咲いたように笑い、いそいそと俺の隣にやってきた。勉強道具を動かしていないところを見ても、ただ甘えに来ただけなのだろう。
とん、と肩に寄りかかる温かな体温が心地よく、俺は握っていたシャーペンを机の上に置いた。空いた手で軽く香澄の頭を撫でていると、ふいにいつか交わした約束のことを思い出した。
『……絶対、香澄を独りにしないから』
香澄の誕生日、この部屋で小指を絡ませた。涙を拭って、嬉しそうに頬を赤らめて、香澄は言った。
『……私も、健治くんを独りに、しない』
鼓膜の内側で、あの時の声が再生される。その瞬間、俺は思わず香澄を抱きしめていた。
「えっ、健治くん?」
突然のことに驚いた様子の香澄を気にする余裕もなく、抱きしめる腕に力が籠る。
……人生の軸は枝分かれしている。大切な人が沢山いて、大切なことが沢山あって、星の数ほどある物語に支えられながら人々は生きている。
だからもし、その中の一つが欠けるとしたら。大切と大切を天秤にかけられてしまったら。人は。
……俺は。
『……ずっと、一緒にいてね』
『……約束』
『健治くんも、がんばってね』
『一体、何をそんなに迷っているの?』
……俺は、何を選択して生きて行けば良いのだろう。