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黒を被った弱者達  作者: 南波 晴夏
第5章
177/203

175. 愛情と自己肯定 中編

「おかえり」


 落ち着いた声が聞こえる。

 いつもならこんな時間にいる筈のない母さんが平然とそう言うので、俺はすっかり混乱していた。


「た、ただいま……」


 あれ、先におかえりか……?

 俺の動揺に気付いているのかいないのか、母さんは表情ひとつ変えないまま言った。


「竜。ちょっと話があるの」


 玲瓏な声に続けて、ズズ、と茶を啜る音が響く。

 あ、このタイミングで飲むんだ……。


「竜?」


「あ、あぁ、うん。すぐ行く」


 ハッとして洗面所に行こうとすると、自分がまだローファーを履いたままだったことに気付く。ぎこちない動きでローファーを脱ぎ、普段はそんなことしないくせに靴の向きを揃えて端に寄せた。

 部屋に鞄を置いてくる時間もなんだか惜しくて、玄関横に鞄を置いてすぐに洗面所へ向かう。


 鏡を覗き込むと、心なしかいつもより表情が強張っている気がした。それに気付いた途端、不安げに早鐘を打っていた心臓の音が思い出したように聞こえてくる。

 手を洗いうがいをし、なんとなく頭の上で跳ねていたちょんまげを外す。


 和室に戻ると、母さんと向かい合う形で座布団に座った。空の湯呑みを手に取り、「飲む?」と聞いてくる母さんに、「あ、うん。ありがと」と応え、両手で受け取る。それほど冷えていたわけでもない手が、やけにじんわりと温かくなった。


 一口緑茶を飲んだところで、机の上に一枚の紙が出される。思わず「げ」という声が出そうになったのを、既のところで緑茶と共に飲み下す。


「まだ親の判子とかが必要な段階ではないけど、一応聞いておこうと思って」


「……うん」


 自然と応える声が小さくなる。机の上に広げられたプリントには、大きく“進路希望調査”の文字が浮かんでいた。


『いつか俺たちが大きくなったら、いっぱい働いて父さんと母さんを喜ばせてやろうぜ!』


 まだ幼かった充の声が聞こえる。あんなに幼かった、のに。

 充はもう、あの頃の約束を実現していた。詳しいことは教えてもらえないが、毎月いくらか家にお金を入れているらしい。俺を置いてとっくに大人になった充は、いつだって俺の先を行く。“竜は気にしなくていい”と俺を甘やかして、優しくして、惨めにさせる。

 仕方のないことだと分かっていても、俺にはやっぱり悔しかった。


 ……本当は、卒業してすぐ働くつもりだった。頭は悪いけど、体力には割と自信がある。エリートが行くような大手の会社で働けなくても、給料をもらえるならとりあえずそれでいい。両親に返せるものがあるなら。負担を減らせるなら。

 ……早く、大人になれるなら。

 それで良かった。それで良かった筈なのに。


『お前、全然馬鹿じゃないよ!』


『馬鹿だからって舐めんなよ!』


『頑張れよ。……応援してるからな』


 夢を見てしまった。諦めたくないと思ってしまった。

 俺はまだ、頑張れるんだと、俺自信が認めたい。自分を肯定したい。やりたいことを、やれる大人になりたい。


「……大学、行きたい?」


 唐突にそんな声が聞こえて、弾かれたように顔を上げる。


「勉強したくないとかだったら就職でも良いし、何かやりたいことがあるなら専門でも良い。……竜の、好きなところ選んで良い」


 ……あぁ。これ以上、迷惑かけたくないのになぁ。

 なんで、どうして今、そんな優しい目をするんだよ。

 葛藤に苛まれて表情が歪む。母さんは黙って俺の答えを待っていた。


 ……良いのか? このまま頼って、甘えて。いつまでも充に追いつけないままで。

 ……でも、俺は。やっぱり俺は、夢を叶えたい。その先で、充に追いつきたい。


「母さん」


 背筋を伸ばすと、母さんは真剣な話だと感じ取ってくれたのか、湯呑みを包んでいた手を膝の上に置いて小さく頷いた。緊張で、ひとつ大きく心臓が跳ねる。


「……俺、大学行きたい」


 母さんの目が、驚いたように少しだけ大きくなる。


「大学行って、もっとちゃんと勉強して……やりたいこと、ちゃんとできる大人になりたい」


「……そう」


 冷静な声でただそう言った母さんは、小さく息を吐いて僅かに頬を緩めた。


「……びっくりした。竜が、そんなこと言うなんて。……竜」


 名前を呼ばれて、互いの視線が絡む。こうして真正面からしっかりと母さんの顔を見るのは久しぶりのような気がする。その眉尻が、力を抜いたようにふっと下がった。


「いつも、ごめんね」


 やけに柔らかな声が聞こえて、一瞬思考が停止する。


「えっ? 何が?」


 慌てて尋ねると、母さんは相変わらず申し訳なさそうに目を伏せた。


「家に居てあげられなくて。いっぱい我慢させちゃって」


「ちょ、なんだよ、急に……」


 悲しげな表情で身を小さくする母さんは、なんだか今にも泣き出してしまいそうな子どものように見えた。

 ……そんなこと、謝られたって。仕方のないことじゃないか。そもそも、母さんや父さんは家族を支えるために働いてくれているんだ。2人がこんなに忙しいのは、俺のせいでもあるわけで。寂しくても孤独でも、それは仕方のないことで。


「ごめんね」


 ……仕方のないことだと、割り切っていたのに。

 母さんがそんなことを考えていたなんて知らなかった。俺のことを想ってくれていたなんて知らなかった。

 俺は、何一つ知ろうとしていなかった。


『大丈夫。竜もちゃんと愛されてるよ』


 あぁ、そうだ、あの時だって。あの時から充は、何一つ見落としていなかった。


「……敵わないなぁ」


 優しくて、周りからの優しさにも気付けて。自分のやりたいことも実現して。やっぱり充は、いつも隣にいて、それでいて程遠い、自慢の兄ちゃんだ。


「……母さん。お願いがあるんだけど」


「うん」


 まだ、あと少しだけ、頼らせてください。


「……塾に、行かせてください。俺、このままじゃ大学受からない。もっと勉強しないと……。部活引退したら、すぐバイトするから。勉強と両立できるように……なんとか、するから。勝手なこと言ってごめん。でも、お願いします」


 ほとんど一息に言い終え、気付くと目線は下に移っていた。緊張で息継ぎも忘れていたのか、少し息が苦しかった。


「……いいよ」


 やけに優しい声が聞こえて顔を上げると、母さんは改めて大きく頷いた。


「大丈夫。父さんも母さんも、今まで頑張ってきたから。竜が何をしたいって言っても、“いいよ”って言ってあげられるように。……だから、良かった」


 ぼやけた視界の中に、母さんの姿が見える。

 形を変えることは滅多にない目を微かに細め、「やっと言えた」と、母さんは笑った。

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