174. 愛情と自己肯定 前編
自分の中でなんとか形にして、目先に見えたゴールを目指して突き進む。確率的には無謀だと考えるのが妥当なのに、誰1人として俺を笑わなかった。
『私は、君ならやれると思っています』
『やっと言えた』
……俺は。俺の望む未来は、俺1人じゃ絶対に辿り着けない。
膝上の両手にぐっと力を込め、長野竜一は意を決して顔を上げた。
* * *
ずっと遠い存在に思っていた“受験”という強敵。とうとうスタートラインに立ってしまったと思うと、柄にもなく気分が沈む。ほとんどの生徒が昼食を食べ終え、がやがやと騒がしい教室を見回す。皆が皆その顔に笑顔を浮かべているけど、胸の内では不安に思っていたりするんだろうか。
そんなことを思っていると、微かに目を細めている高津の姿が目に入る。こっちは随分機嫌が良さそうだ。
「なにニヤニヤしてんの」
「いや、部員増えるの嬉しいなと思って」
高津と里宮の会話に耳を傾け、俺は思わずうんうんと頷く。人数は多ければ多いほど楽しい。100人くらい入ってくれれば良いのに、と無鉄砲なことを考える。
ちょうどその時、里宮の「しごきがいある」という恐ろしいセリフが耳を掠め、反射的に「こえ〜」と声をあげて笑う。
新入部員の中には五十嵐と里宮の後輩もいるそうだ。確か名前は“麻木”だったよな……。
その姿が頭に浮かぶと同時に、吐き捨てるような里宮の声が脳裏に響いた。
『そんなに反省会したいならひとりでしてろ』
あの様子からすると、これからの部活ではかなり厳しく後輩を指導するだろう。想像上の里宮が険しい顔つきで腕を組む。……負けるな、後輩。
苦笑しながら心の中でエールを送っていると、隣に座っていた川谷がガタンと椅子を鳴らして立ち上がった。
「悪い、俺ちょっと図書室行ってくる」
手元のプリントに目を落としたままそう言った川谷は、そのまま廊下に向かって行く。その背を見送りつつ、無意識に「えー」という声が漏れていた。
頭では川谷の用事も理解しているつもりなのに、心にはやるせなさが募る。だって……。
「せっかく同じクラスになれたっつーのにー」
頬を膨らませて文句を垂れると、すぐさま「駄々っ子か」という五十嵐のツッコミが飛んでくる。その視線は手元の本に向けられたままだが、話は聞いていたらしい。
その時、脳内であるアイデアが弾けた。
「いいもんね! 川谷には見せてやらない!」
とっくに教室を出ている川谷へのあてつけのように言いながら、スマホの写真フォルダをスクロールし、数日前に撮った奇跡の写真をタップする。タイミング良く「見せるって何を?」という高津の声が聞こえ、俺は待ってましたと言わんばかりにスマホを突き出した。
「長野家の天使!」
胸を張って言った言葉が合図だったかのように、3人が同時にスマホを覗き込む。最初に声を上げたのは高津だった。
「えっ! これ姪っ子?」
「そう! かわいいだろ!」
自慢げに言いながら、実物はもっとかわいいんだぞ! と心の中で付け足す。従兄弟も再従兄弟もいない俺は、数日前初めて自分と血の繋がった赤ちゃんを見た。
感動のあまり小さなクリームパンのような手をそっとつつくことしかできない俺に、くるみさんは可笑しそうに声を上げて笑った。
『そんな恐る恐る触らなくて大丈夫だよ! ほら、抱っこしてあげてよ、竜くん』
くるみさんの腕に包まれたまむが丸い目でじっと俺を見つめる。何度も何度も抱っこの仕方が正しいか確認し、軽くパニックになっている俺とは裏腹にくるみさんは終始楽しそうに笑っていた。
軽く組んだ膝の上で腕の中に抱きすくめられたまむは、くりくりとした丸い目でじっと俺を見ていた。真剣な眼差しからは感情が読み取れず、「は、はろー」などとアホらしい発言をしてしまう。まぁ、実際アホなんだけども。
そんなことを考えているうち、まむは俺から視線を外して手足を軽く動かした。予想に反して大人しいまむを見て、俺とくるみさんはどちらからともなく顔を見合わせて笑った。
うとうととした様子で目を開いたり閉じたりしていたまむは、やがて腕の中で小さな寝息をたてはじめた。その寝顔が驚くほどかわいくて、慌ててくるみさんに写真を撮ってもらったのだ。
よって誕生した奇跡の一枚を存分に見せびらかし、しばらくまむの話題で盛り上がっていると、五十嵐のスマホからピロンッと軽快な電子音が響いた。
「悪い、俺」と片手を上げながらスマホを手に取る五十嵐を見て、全身が好奇心に支配される。ほとんど反射的に身を乗り出し、「なになに、彼女!?」と半ば揶揄うような声を上げると、五十嵐は表情ひとつ変えずに「うん」と肯定した。
“うん”? ってことは、ほんとに彼女から?
一瞬思考停止しそうになるが、「まじで!?」と自分の口から興奮気味の声が発せられるのと同時に状況を理解する。
そうと分かれば、と五十嵐の肩に顎を乗せるような形で画面を覗き込む。
「なんだって?」
まるで自分のことのように胸を躍らせながら言うと、何やら素早い動きで返信を打った五十嵐が「今日、会おうって」となんでもないことのように答えた。
「そっか〜! 良かったな! どこ行くん?」
「さぁ。どっかそのへん出歩くだけだよ」
トーク画面に目を落としたまま落ち着いた声で答える五十嵐に、訳もなくすごいなぁ、と感心してしまう。
俺にとっては遠い世界の中で、五十嵐は既に過ごしている。自分が“そう”なる未来はいまいち想像できないが、早く大人になりたいな、とは思う。
やりたいことをやれる努力をして、自分に自信をつけて、五十嵐のような余裕フェイスを習得して、今より広く大きな世界を見ることができたら。
……その時は、胸を張ってその感情に名前を付けることができるだろうか。
そんなことを考えていると、晒された額にこつんと軽く拳が当てられた。
「どした? ぼーっとして。もう授業始まるぞ」
不思議そうにそう言った五十嵐を数秒見つめ、ぼんやりとした頭のままふと口をつく。
「弟子入りさせてください」
「他あたって」
* * *
「じゃーなー」
いつも通り駅までの道を皆と歩き、自転車にまたがって元来た道を駆け抜ける。立ち漕ぎで勢いをつけると頬にあたる風が少し冷たく感じた。
新生活にも慣れ、すれ違う生徒たちの笑顔からも緊張が抜けているように見えた。鼻歌を歌いながら見慣れた道を数分走り、流れるような動きで自転車を家の前に停める。
ポケットから取り出した鍵を鍵穴にぶっ刺し、あくびをしながらドアを開ける。
……ここまでは、いつもと何ら変わりない日常の動作だった。
「おかえり」
聞こえる筈のない声が聞こえた。
びくりと身体が飛び上がり、やけに現実味のない姿を見て思わず目を見開く。
「た、ただいま……」
仕事帰りなのかスーツ姿のまま湯呑みを持ち、和室から顔を出していたのは俺の母さんだった。