173. 道を示す光 後編
センパイたちがチームを卒業する日。
いつも練習をしている体育館に全学年の生徒が集められ、軽い送別会が行われる。それが毎年の恒例だった。
簡単なゲームやら、普段のチームを無視して行われる試合やらで盛り上がり、卒業生へメッセージカードを贈ると、小さな”卒業式“が終わりを迎える。
その時、ふと目に映ったのは窓越しの桜を見上げるレンセンパイの後ろ姿だった。
俺と同じユニフォームを着て、その右手には全生徒からの想いが込められたメッセージカードが握られていた。高く結ばれた黒髪の先が、ちょうど背番号のあたりで静かに揺れている。
俺とレンセンパイを繋ぐものはバスケしかなかった。
そしてそのバスケを共にプレーできる場所は、この特別チームだけ。
センパイは今日、チームを抜ける。センパイが俺と同じユニフォームを着ている姿を見るのは今日で最後だ。きっともうセンパイは二度とそのユニフォームを着ない。
センパイとのバスケが終わる。センパイとの繋がりが消える。そう自覚した瞬間、計り知れない程の恐怖が俺を襲った。
「センパイ……」
乾いた口からぽつりと声が零れる。
その時、センパイの背が淡いピンクの中に溶けていってしまうような錯覚を見た。
……錯覚だと、分かっていたのに全身を巡る不安を抑えられなかった。
「レンセンパイ!」
情けなく焦りに駆られた声をあげ、センパイの振り返る姿を見たかと思うと、俺は無意識にセンパイの手を掴んでいた。センパイの、猫のように丸い目が少しだけ大きくなる。
その時、なんだかセンパイが初めて小さく見えた気がした。
「卒業しても、また……一緒にバスケしてくれますか」
自分でも驚くほど弱々しく、縋るような声だった。
センパイは俺の手を解き、ニヤリと笑ったかと思うとそのまま乱暴に俺の髪をわしゃわしゃと掻き乱した。「ちょっと」と俺が止めるのも聞かず、ひとしきり俺の髪を撫で回したセンパイは、漸く手を下ろすと眩しいくらいに歯を見せて笑った。
「お前が強くなってたらな」
その言葉と笑顔を、俺は今でも覚えている。
目に焼きついて離れない、という表現を初めて実感した瞬間だった。
それからの日々は、俺を少しだけ驚かせた。センパイのいないコートはどこか寂しくて、今までと同じやり方では上手くいかないことも多かった。
それでも、俺の中のバスケは少しもブレなかった。正直、レンセンパイやシュウセンパイがいなくなったら、バスケに対するこの想いは少なからず変化すると思っていた。
だから久しぶりにセンパイたちのいないコートでバスケをした時は心底驚いた。俺にとってバスケは、当たり前にある生活の一部ではなく、レンセンパイとの繋がりを保つためのものでもなく、ただ純粋な”好きなこと“になっていたのだ。
その事実に気付いた時は嬉しかった。
あの時の言葉にも自信を持って答えられる。
俺は、バスケが好きだと。好きだから続けているんだと。……その時、ふいに隣を向いてしまった。そこにいる筈の小さな人影を探してしまった。その行動に一体どんな理由があったのか、当時の俺には知る由もなかった。
もう二度と会えないかも知れないと思っていたレンセンパイは、卒業してからも何度かチームに顔を出してくれた。中学でもバスケを続けているというレンセンパイとシュウセンパイの技術は格段に上がっていた。センパイたちが見にきてくれる日を待ち侘びながら練習に励む日々はあっという間に過ぎ、中学生になって俺もチームを卒業すると、センパイたちに合う機会はほとんどなくなった。
俺の中ではいつまでも褪せない記憶もどんどん過去になり、まるでセンパイたちとプレーした日々を追い求めるように、俺は一層バスケにのめり込んだ。
中学では部のエースとして走り続け、3年になって引退する頃にはいくつかの高校からスポーツ推薦の話を持ち込まれるようになった。どの高校も強豪校ばかりだったが、どうも乗り気にはなれなかった。
バスケばかりの毎日が突然なくなり、”受験生“と呼ばれるようになっても、俺の中ではあの頃のバスケだけが全てだった。
本格的な受験シーズンに入り、両親からも教師からも急かされるようになった頃。自分の将来を考える間も、ふと脳裏を掠めるのはいつも、レンセンパイと交わした約束のことだった。
『お前が強くなってたらな』
あの弾けるような笑顔は、紛れもなく俺が見たセンパイの中で一番輝いていた。
この頃になると、センパイへの想いがただの尊敬だけでないことにも薄々気が付いていた。
強くなれば、またセンパイに会える。同じコートでバスケできる。あの眩しい笑顔を見ることができる。その思いだけで必死に走ってきた。思えば、俺はずっと先輩の背を追っていたんだ。
だから俺は、レンセンパイのいる雷校に行くことを選んだ。
……それなのに。
あの頃よりずっと、強くなれた筈なのに。
『今のお前に強いも弱いもねぇよ』
あの頃のように笑いかけてくれない。一緒にバスケをしてくれない。高津センパイの袖を引く手が、やけに鮮明で。
迷いながらのドリブルも、パスばかり回すプレーも、入らないシュートも。
レンセンパイはもう、あの頃のセンパイじゃなかった。俺がずっと追い求めてきたセンパイはどこにもいない。
『”あの頃の私“は”あの頃“にしかいねぇよ』
センパイは、自分の変化に気付いていた。見ないフリをしたくなるような現状を受け止め、それでもまっすぐに前を向いていた。
こんな風に、センパイを変えたのは。
……見たことのない顔で笑うセンパイの横顔が蘇る。
「レンセンパイ、バスケ部に好きなやついるっしょ」
俺の中では既に確信に近い仮説を口にすると、センパイはあの頃よりずっと低い位置から見上げるように俺を睨み、「はぁ?」と声を荒げた。
あからさまに不機嫌な顔をしたまま、センパイは吐き捨てるように言った。
「練習中にくだらない話するな」
鋭い目を俺に向け、センパイはそのまま身を翻す。
……くだらなくねぇよ。俺は、ずっと。
『アサギ』
「センパイ」
気付くと俺はセンパイの手首を掴んでいた。折れそうな程に細く、頼りない小さな手。
……そうだ。俺はずっと、初めてセンパイに会った日からずっと、センパイに近付きたい一心で必死に練習を重ねてきた。センパイはいつでも俺を導く光だった。
センパイに追いつきたかった。対等になりたかった。
ちゃんと同じ場所に立って、好きだって言いたかった。
初めからずっと、レンセンパイのことが好きだったんだ。
……だから。
「好きなんすけど。付き合ってくれません?」
自然と溢れ出した言葉を、止める気にはなれなかったんだ。